L'air de Paris ⅩⅡ



ミセス・ハッポウ

March 27, 2019

葉牡丹の摘芯前にパチリ。


徒長気味の姿もスラリとしたシルエットが好きなのです。もったいなくて切戻すタイミングを逸する駄目駄目なアマチュアガーデナー。

"アリス" っていう種類で、気温や光で色が変わるの。

2枚目は "ヴィンテージベイン"。
葉脈が綺麗に色づきます。

バックにくる予定だった蔦を刈り込み過ぎて、背景がハゲハゲな写真です。


同じ植物をずうっと育てたらもっともっと深く知ることができるでしょうけど、病院の間にぽつりぽつりお世話しててお花の知識もなくいい加減。


その割に色んなお花が好きで目移りして、ひとつの科に絞って育てるなんてとてもできない。


小さな日常のお庭ならそれでいい。音楽の場合は違うな。

昨日の記事のように音楽との関わりはフランスに絞ってフランスばかり追いかける事について、偶に知人に問われる。

  理由の1つは決まり切ってて、フランスに恋をしてるから。
  2つ目は主義として。2つ目が普段上手に説明できてない。
  今日も纏まりはしないけど試みますね。


例えば東洋音楽の演奏家です、って仰る西洋人・仮名ミセス・ハッポウが居るとするでしょう?


もし彼女が「日本の音楽もよく弾くし、中国音楽は特に好き。この間リサイタルで韓国の曲を弾きました。ミャンマーものも仲々イイんですよね。」と言ったら多くの音楽家さんはどう感じるのかな?

尋ねたことがないから分からないけど、納得される筈なのです。何故ってとても多くの方々が東西を逆にして此の通りのことをされてるのだから。


ミセス・ハッポウはたくさん生徒さんも教えてる。


「生徒にも中国音楽は弾かせてるし、韓国の曲の面白さをしっかり伝えてる。カンボジアの曲にも生徒達が興味を持つようにしてます。」

こんな事をハキハキ答えてくるミセス・ハッポウのやり方を、成程と納得しなさる筈だ。


私は自分自身がそれ (色んな国の曲を弾く事) をできないから、別な風に考えてしまう。

ミセス・ハッポウは上の科白だけでもう、彼女の音楽が信用できない気がしてしまう。ただのアヤシイ外人にしか見えなくなる。


東西を元に戻して... 自分ができないから、出来ると言ってる人が理解できないんだと思う。


そんな事ができるなんてイカサマに見えてしまう。

西洋音楽と関係のない言葉を話し、関係のない慣習を持ってるだけで大きなハンディがある筈だのに、ハンディをものともせずにあらゆる国の音楽に精通することが全く考えられないのだ。

私なんかはドイツやオーストリアの音楽は、日本のピアノ教育で比較的偏って教わることとなる分量を普通の音楽学生と同様に撫でただけ。音楽と密着した音環境である言語も話せないし世界史の一環のサラッと上澄みの歴史しか知らない。文学も絵画も多分フランスの40分の1も触れてない。

哲学はだいぶ好きだけど、他は何も知らない。ドイツ人彫刻家を挙げなさいって言われたら恥ずかしながら1人しか絞り出せない(すっごい変な事かも)。それくらいドイツの芸術を知らない。


生活感覚として音楽を理解してない。だから身体の中から音楽が出てこない。


分かってないのはドイツ音楽だけみたいな書き方しちゃってるけど、そうじゃないです。

フランス以外の殆ど総てを「分からない」。

フランスと、フランスに直接的に関わった一定の作曲家だけは「どれだけ分かってないかくらいは判断できる」程度に理解してるつもりになってるけど、それだって間違いかも。

だから分かるまで追いかけたい。

そしてやっぱり自分には、ミセス・ハッポウ達の超能力じみた天才ぶりで以ってありとあらゆる作曲家の曲を演奏しちゃうことに、ドイツ音楽よりもっと遠い隔たりを感じてる。

私などがそれをすると、ぜ~んぶ我が家の葉牡丹みたいになっちゃうもの。あと900年くらいは勉強しないととても理解が追いつかない。だから希少なたった1つを大切に大切に温めたいのです。



音楽の本を読んでないお話

March 05, 2019

先日シマエナガ先輩とおしゃべりしてた流れで、自分は音楽の本って読まないですね...と言った。


あまり考えず口に出して、後で一人になった夜にそれってどうしてだろう? と考えた。


振り返れば、三善晃先生・遠山一行先生・西原稔先生はじめ近くに居てくださった先生方が語られる続きのお話を聞きたいなぁって気持ちでお世話になった方々のご著書は手に取った。

其れらは '人ありき' で成立する読書でした。


'この方がおっしゃることを知りたい' って構造と 'この内容が知りたい' とは、実は遠くかけ離れたものじゃあないかな?


無論ティーンの頃はお勉強の一環で、知らなければならない事に手当たり次第に目を通しはした。でも私がした其れは読書じゃあなかった。

事柄を取入れようとする行為に他ならなかった。ページに書かれてることを '得よう' とする目的があった。タイトルに釣られて選んだそんな本たちは筆者も憶えてないのが実情・・・

今の自分は其うじゃなく、お人を通したものの見方に興味を抱いてると思う。


上手に申せないけれど... 'この方がおっしゃることを知りたい' は、著者を人として受け止めるような感覚カナ? お小説ならプルーストが読みたいとかゾラに触れたいなど作者の筆で空間が覆われるのを望む感じ。


それに対して私の場合はですが、'この内容が知りたい' と手に取るのって、其処に書かれてる事が信頼に足るかどうかを自分自身の眼で選びとってない場合が多いってある年に気づいた。


どんな方法でも良いものに出会えればall rightだけど、自分には 'どなたが語られる事か' が大事なんだと思う。'何が語られるか' よりもネ。


'何が' の内容は筆者のほうが選び、そのままを受け取るやり方がとても好き。其うしたくなるほど愛してる著者を追いかけていたい。


たとえばジャンケレヴィッチ氏がある日はラヴェルを語り、別のある日は倦怠を語るそのままを悦んで享受するのは、

物事との関わりじゃなく人との関わりとして見たいからかも?
側に寄る夢も叶わない彼らを理想と据えて追いかけたいのかも?


って風に読んでると、いわゆる音楽書に照準が当たらなくなる。


  音楽書には音楽のことが書いてあるでしょう?
    だからかな。
      読んでもあまりわからないのよ・・・

内容的には理解できます(そりゃそうだ)。でも感覚に触れてこなかったりする。


歴史書・社会学書は歴史と民族に培われたもののシルエットが湧き上がるように現れ、
哲学書は国の気質を洗い浚いぶちまけるように示してくれる。


文学書は国と年代と、他国との関係背景を「感情的な歴史」のようにも見せてきて、


詩は息遣いで音楽を示してくれる。音楽そのもののように神経を鷲掴みにしてくる。

そんな全部と手を結ぶ音楽の姿が、全部を読むと少しずつ描出される。それこそがダイレクトに中枢神経に入ってくる。でなければ「音楽のことを読んだ」気がしないってニブイのかな?

音楽の本を殆ど読まない理由はこんなところでしょうか。読まないことは決して推奨されるものじゃあないけれど、読んでもよくわからないから仕方ないのよね・・・


*音楽遊び計画とルソー
*使えない音楽



使えない音楽

February 19, 2019

真ん中に跳んでるイルカさん。右のほうに親子イルカさん。見えるかな?


神戸大橋の麓、神戸北公園を通ったのでした。

此処でお話してたのは、出会ったばかりの頃に行った本屋さんでの事でした。


どんな本を読む? っておしゃべりし合ってる内に夫はhow to本を罵倒したの。


あれ良かったナ・・・

一定の人々の間に居るうちはまったく当然の考えとして其れまできたのに、音楽系の人達を傍観すると「使えそうな本」を読むのを目にするようになってた。(参考書としてではなく、研究書は読まないまま主観的な本を参考書代わりにする格好)

だから演奏者の口から「使える事、という考えの否定」を久々に聞けて嬉しかった。


"使えて役立つことが書いてあるなんて駄目だよ" って夫が言ったのは例えば、初めて釣りをするのに必要な物を揃えるために読むことや、初歩のお弁当作りのコツを否定するものではないの。


その場合は是々を得たいって目的に応じた実践の参考書だもの。


其うじゃなく「何かに使えるだろう」「何かの役に立つかも」って助平心で取り敢えず '00の生涯' 的なのを読んで終わる虚しさを言ったんだって思う。(1人の作曲家について100人の筆者を比較するなら佳所多しと思うが)

スピリットより役立ちそうなほうを見る中空を彼が毛嫌いしたのでした。そんな、何年も前のふとした会話を思い出したのは


やはり音楽を巡るあらゆる事柄を「使う・使える」と選別する行為に決して音楽的な美しさを感じない、って夫とおしゃべりしたからでした。


この先もしコンサートに参加したり人様にお話しようとする日が来たら、使えず何にもならないことをおしゃべりしたい。これまでと変わらずネ。

  《使えないもの。何の役にも立たないもの。
   そして音楽が美しいと教えてくれるもの。》

それが自分にとって総てだナ。
多くの教師が音楽にメリットを持ち込みすぎだと常々考える。

使えるからやる、使えるから便利、やったから使いたい
何のために?

何のためにユーティリティーに置き換えて、何のために自らの発想まで醜く変色させるんだろう。

元々は美しさのためじゃなかったのか?


噴水は冬の夜も噴き出していて
誰も居ない公園に、暗い中で小さな虹を作ってる。


真ん中の上のほう。見えるかな。


'すぐに虹が作れる・使える虹・虹がよく見える方法' なんて寒々しい講釈は要らない。

この虹は「使えない」。
何にも使えていない。

使えない虹が今夜も現れることに美を感じないだろうか?
感じるとすれば、それが音楽の一片だ。

音楽要素は使うものじゃない。



エリュアールとクラゲ

February 17, 2019

嗚呼エリュアールはなんて楽しいのでしょう!


プーのカンタータのリンクを昨年末に貼ったのをきっかけに改めて聴きはじめて、つくづく素晴らしい曲よねぇって・・・

エリュアール詩もお部屋でも通院でもしばしば読んでました。


'大地は青い。オレンヂのように' の詩が特別に気に入ってます。


エリュアールはひとつも訳してないし翻訳本に此の詩は入っていないからとても素敵な壺齋散人様訳のリンクを貼らせていただきますネ。(ご了承はいただいておりません。もし問題があれば削除致します)

あまりにも好きになったから今年の色紙展は此の詩のイラストにしました。


バックは水彩。
文字はチョークとクレパスを重ねました。


今年もブルゴーニュ君が登場しています。ブルゴーニュ君のお隣を歩くのはクラゲ。詩の中にクラゲは出てこないけどネ。


リラの色が大好きだから、使った絵の具も似たような色多し。


乾くと3色の差は微妙にしかわからないけど(笑)とっても楽しんで描きました。


■エリュアール関連リンク
*チャイコと雪とプー
*2019年元日



お箸とフォーク

February 14, 2019

「フォークとナイフが出てくるところは肩が凝るから」
と避ける小父様方が居られる。


そんなの全然構わないけど仰ってる理由は違うよね・・・
って風な理屈を捏ねたのは、恋人時代の夫でした。


"箸さえ出てくれば肩が凝るって言わないのか?
嘘つけ。懐石で箸が出ても肩が凝ると言うんだ。


[肩が凝る] のはフォークか箸かじゃない。
[きちんとするのが苦手] なのをフォークのせいにしてるだけ"

って今より少し若かった夫が言うのを聞きました。

この時は消費者側に照準を合わせたお話だったしニュアンスは異なるけれど、真反対の例もある。


先日もやもやした '城' も似た構造があると思うな・・・

  *


先回は [親しむ] コトのおしゃべりをしました。
もうひとつキーがあって...

[親しめるようにしなければ] って実施する側が考えてしまう始まりは、もしかしたら「クラシックはとっつき難い」って理屈を信じちゃったせいじゃあないかしら。


[フォークだから肩が凝る] の例のように、表現側が実際と違う理由を何らかのはずみで (ご本人が感覚を勘違いしてるか、若しくは敢えて事実と異なる表現を選んでるかは様々でしょう) 口にのせて生じた誤解・・・


演奏者はその表現を鵜呑みにして「とっつき易くすれば聞いてもらえる」「とっつき易くしなきゃいけない」と思ってしまった。

そんな図があるのではないかしら。


本当は [とっつき] が理由なんかじゃあなかった。


相手は離乳食のベビーちゃんじゃないんだから、とっつきが理由だなんて信じるのはお客様を馬鹿にした話にも思える。

「どうやっても好きになれないし今後も聞く気はない」とハッキリ言うのは日本的には角が立つから、どうもとっつきが悪くてねぇ... とやさしく濁しなさってるのに、何故か鵜呑みにして [とっつきさえ良くすればいいんだ] と赤子をあやすような様相でゴリ押しを続けるほうがどうかしてるんじゃないのかな。

なんてことを熟ら思ってる病院帰り。





February 10, 2019

もやもやする。


クラシック音楽に簡単に親しめます、的企画に先日非常にもやもやした。

歴史を漫画にしたり古典を絵本にしたりが大変有用に成立してるものも多いです。でもね紙に残って繰返し読んで繰返し感じ考えることができる漫画や絵本と、その場で消えてしまうコンサートは違うな。

ナンテ多分やってるほうもとっくにわかってるのよネ。


とっつき易い音楽の入口と漫画の入口は残す形態が違って、だから人の中に残るものが違ってしまう。


ご本人もわかった上で 'これで親しめます' って詐欺を続けるってどうなの? っていうもやもやですかね。

どの世界でも詐欺の手口って進化し巧妙になってゆくのに、音楽界はどうしてガラ携初期と同じ手口をまだ続けるのかなぁ。


企画はそのままで良いと思うのだ。


「その瞬間だけ親しんだような錯覚に陥ります」と正しい説明が必要なのだ。加えて

「しかし音楽に親しむことの本質は元来こういうことではありません。[親しむとは何か]のミーニングをお互い考えないよう見ないよう騙し合ってどれくらい満足できるかやってみる企画です」

ってちゃんと言えば、参加型ゲームとして成立するのにな。


目に見えず形を成さない音楽だから、消費者が間違えることを狙った紛らわしい広告みたいなギリギリ嘘じゃない抜け道は沢山あるでしょう。


其んなペテンじゃなく、'親しんだ気分にさせる実態は音楽をチャチに変えただけ' の構造を掘り起こすゲーム視点なら、たとえば音の聞き取りなんかできなくたって弁証法として突っ込む参加が出来るし意義もある。

それは音楽を安手にしないという意義だ。


娯楽がこれだけ増えれば人々は分散し、クラシック音楽に目が向く機会が減るのは当然。


それでも世紀を越えて残ってきたのは美しいからじゃあないのかな。クラシック人口が減ろうが美しさは砦のはずじゃないか。

ソッポを向いた首根っこをひっ捕まえて 'ほらほらこっちを見てくださいよ、ねえ!' と懸命なあまり詐欺広告的に変わっていって中身はチープになり、これは違うと1番分かってる自分をも騙し続けた先に何も無い。


誰かを無理に振り向かせる必要なんてあるのかなぁ。
美しいものを求める人が吸い寄せられる美しい城であればいい。


*入口・出口



ソース論

January 28, 2019

サヴィニャック展で求めたミニ図録を飾る。


ちょっと怖い雰囲気もあるイラストは映画ポスターになったもの。可愛めのコーナーに仕込んだりして。
綺麗とエグ味はプー的配分が自分にとっての1番です。

**


音楽評論に関して知人とおしゃべりした。

音楽論は好き。
読んだ経験内ではどれも大好きでした。

ジャンケレヴィチみたいに思想哲学に高められ審美学にまで昇華してるお書き物は本当に素晴らしい。


美しい音楽論 = 楽曲論 = 作曲家論があるのに対して、演奏評論はロクでもないのしか読んだことがない。


大昔に読んだきり厭になってCD解説さえ目を通すこともないから現状は知らない。ロクでもなくない評論があるなら是非読んでみたいって思う。ん? いや、やっぱどうでもいいかな。

基。

演奏評論を職業とした(それは一体何ぞや?)書き物に限ってロクでもないのしかお目にかかったことがないのであって、演奏者様自ら実践力を伴いつつ書かれた古く短いお作は興味深く読んだことがある。

それらは職業的なお書き物じゃあなかった(何故って筆者は演奏がご職業だった)から、文芸冊子の端にちょろんと見えたような筆だったが、演奏者が体験を以って単一曲を取り上げてらっしゃるイデに賛同した。


と、知人に言ったのです。


私たちのおしゃべりは

《音楽論は精神性の高いものは無論アリで、それらは至極文学的で美学要素が実に高い。該当楽器演奏者が書く演奏評論も面白い(例えば声楽家による歌曲演奏解説。歌曲解説ではない)。別楽器演奏者の演奏評論も場合によりアリ。
しかし弾かない演奏評論は完全にナシだ》って話題でした。

その意(ココロ)は、媒体が楽譜であるかどうかです。

弾ける・弾けないは指や腕のメカニックの問題じゃなく、譜面に触れ、作曲家の言葉として譜を理解し、先人の演奏に頼ることなく自らの中に "音楽が物理的に立証できる形として生まれているか否か" が '弾かない人間の演奏評論は論外' の理由です。

知人同士の戯言ですが。


重ねますが弾く・弾かないは演奏能力の有無等ではありません。

  *弾けなくても大丈夫


他人の音楽観を介さず、作曲家の言葉をダイレクトに受け取る事が自ら弾く以外の形で得られれば問題ないわけですね。最低限、奏者と同等の理解をすれば良いだけです。

黙読という手も無くはないけど、黙読だけで全部の和音ニュアンスを総合的に理解するのは相当音感が良く博雅な演奏者さんでも先ずもって無理なお話・・・ 

音に対し体が指が腕が即反応する演奏者は、耳から入る一定の音質を鍵盤の重さや感触として直ちに知覚してゆく人が多いでしょうが、それでも脳内だけの再現が難解な楽曲は数知れずあるわけです。

はてさて其れを踏まえれば弾かない評論者つまり小脳と大脳が音に関してストレートに繋がらず、昔ならペンを握って暮らす人にとって音がない黙読の場合に脳髄でどのような理解と再現がなされるか。

そりゃあもう不可能or思い込みの2択しかないと話した。


思い込みが多々あるだろうと突っ込まれて然るべき黙読でもなく
自ら1音ずつ譜面から拾い上げて音を出すこともないなら
楽曲を決定づけるソースは他人の演奏?


AさんBさんCさんのココとアソコを貼り付けてDさんのイメージを足した感じがこの曲... みたいな詐欺まがいを「その職業のベース」にする人も昔は居たそうで仰天するが、今時は聴き比べだけで '職業的に金銭を得て' 楽曲への基準を決定づける奇々怪界はご本人の名折れになるだけだからさすがに無かろう。

知人はアレルジックな演奏評嫌いだけれど音楽論についてはなんにも言及してなかった。その知人がふと口にした。

'音楽論も、既存の演奏をソースにすることがゼロではないと言いきれるか? '

言い切れないですよね。でも音楽論(楽曲論)の場合、他者の演奏から受ける印象を参考にするのは楽曲理解を助ける一環としてアリじゃないかな? っていうのが個人的意見なのよね、今のところ。

2つは根本的にスタンスが違いますね。

作曲家の言葉である音符をどう受け取るかが音楽論で、演奏評論は「こう受取り、だからどう表現したか」という「行為に対する批評」で、その場合「どう表現できる可能性があるか」を筆者が知り尽くさなければならない。「どう表現できる可能性があるか」は1音1音を譜面から拾い、洗い出し、選定する以外に道がない。

対して音楽論は表現の可能性には触れるのは必須ではなく、作曲者が何を言い、それをどう受け取るかの可能性を解くものだから。



ラ・フォンテーヌ的会員を辞めた話

January 20, 2019

イルミナージュ写真の最後です。


動物さんオブジェに静かにテンションが上がるブルゴーニュ君。
視覚からお友達がいるって思うのカナ。とっても嬉しそう。


昔入会してた音楽の集まりを何年か前に辞めたお話。

企業様も在籍され、維持に貢献いただいてお世話になったが
会自体は音楽界を発展させましょう的に月並みな名目を掲げる割りに、発展とは何かのビジョンは無くお粗末だった。


避けもせず、積極的に参加もせず、関わりは流動的だった。
流動的な関わりが公認されてたから会員で居たと言えます。


ある年、地域の音楽活性化事業の一環で居住区域のコンサート活動に関わってくださいって呼びかけがあった。

呼びかけの書面とスケジュールが封筒の中に入ってた。
地域のコンサート事業に割くことが可能な日にマルをつけてFax返信するようになってた。

--- 郵便物は開封せず棄てることも多いけど、会員である限り会費は滞りなく払う。封を開けたのは振込用紙在中の印がある便だったからと思う ---

  70歳代の御大が差出人兼・事業責任者だった。
  バックレてやった。


説明文を見て、オイオイと思ったからだ。


最底辺に堕ちたクオリティのまま活動だけ活性化したら、悪玉菌を量産するだけだろうが! と苛立たしく感じた。同時に、悪玉菌が同類子孫を増やそうとするのも生存本能かと納得もした。

ならば私は断固反対だ。

馬鹿馬鹿しい悪玉種通信はバックレるのが環境保全のため、と迷わなかった。


責任者当人から電話がかかってきた。


大御所と呼ぶには眉唾感満載だが何故かオオゴショってことになってる、よくあるパターンの単なる老夫だ。

まあまあ感じ悪い応対してみせた。

返信を急かしてきたから「返信しないのが返事だと何故わかりませんかね?」と言ってるのに、相手は私からのFaxがないと繰り返す。音楽センスだけじゃなく耳と頭も悪いのか。

"返事はね、だからFaxでって書いたでしょう。Faxだよ君。"
臭い息が電話から出てきそうな無神経で汚い声が響いた。

わかりました。


確かに会員の義務の返信を、書かれてる通りFaxでしなかったのは良くなかったワって反省した。


反省したので言われた通りすぐFax返信した。

  音楽xx活動とFaxが義務なら
    本日音楽oo会を辞めます

可能な限り大きな太字でA4用紙一杯に書いてFax返信した。

確かにFax送りましたからねー。


送信直後に事務局へもお電話し退会を申し出た。
事務局には何の手落ちもないのだから丁寧に接した。


会員条件を満たして入会したが、後から自身が非承認の馬鹿馬鹿しい義務を課し、選別の選択肢を与えないようなタワケ者が幅を利かせる野蛮な処なら会員を辞めるまでだ。何でもない話だ。

何となくラ・フォンテーヌがセレクトする傾向の寓話が頭を過ぎったので厚かましいタイトルをつけてみた。

"どうしてもFaxを送れ" と苦情を言ってきた媒体が電話じゃなくFaxだったら、もっと面白かったのにと関西人として残念に思う。



ギリシャ的ピアノ話

January 19, 2019

下の方から熱心に景色を眺めるブルゴーニュ君の頭。
何を思ってるんでしょうね。


イルミナージュの写真を整理しちゃいたいから載せてゆきます。


昨日の話題周辺の事をもう少し・・・

  *弾けなくても大丈夫

何をするにつけ目安がほしい方は多いと思うし、励みにもなり、特に子供さんには有効な事が随分あると思う。

ただ自分が大人のかたにするレッスンでは、音楽と達成感を混同させないよう心がけます。達成感などでは測れない深部の理解を最も大切にしたいです。


熱心な生徒ちゃんは色んな方法でお勉強してくれるんです。


先回は "音源をかけて、テンポには追いつけなくても上の音だけでも何とか拾って、流れを掴む練習をしました" って。

"全部の音はまだまだ聞けなくても、何回もやってるうちに分かるようになるかもしれないと思いまして・・・" とのこと。

  ああ... はい、なるほどですね~... と思わず
  今時の部下が上司に言う間違った言葉遣いしてしまった。
  傷つけずに指摘する方法を探って変なお返事になった。

2,3秒悩んで、音楽に関係ないかのおしゃべりを始めました。


生徒ちゃんが試みた '擬似スピードラーニング(?) ' みたいな方法はもしかしたら効果があるかもしれない。


否、効果「も」あるかもしれない。つまり逆効果「も」あるかもしれないし、一見効果と錯覚する事「も」あるかもしれない。'曲に触れる' 回数を多くする意味では、やらないより良いかもしれません。

  沢山回数を触れたらその分発見があるから。

ただこの段階の生徒ちゃんの聴取りの力と、彼女が理想と考える '音楽' にとって必要かどうかは私にはわかりません。

いずれにせよ生徒ちゃんの上手くなりたい気持ちに応えたい。


応えるために変な例を出してコメンネ。道を照らしたいと思ってるから客観的に聞いてね・・・ と切り出した時は自分でも何処に着地するのが生徒ちゃんのためかわからなかったです。


楽譜
お料理を上手になりたいって思う人が本屋さんでお料理ブックを見て、コレ作れそう! って俄然やる気が出て本を買うとするじゃない?

音楽辞典
帰宅してお料理本の材料を見たら、知らない食材が書いてあるって気づきます。わからないから調べるの。調べて、読んでも、「味」そのものはわからない。食べたことがないから当たり前なのに、謙遜なその人は、どうして自分はわからないのかな? って少し悩んでしまう。

黙読
いい加減でも大丈夫なお人だと作る時に詳しく読んだらいいわって怠けるけれど、この頑張り屋さんは予習する。


音読み
本をよくよく読むとパッと見より随分大変なんだなあって思う。

本を積んだまま放り出す根気のない人も居るかもしれないけど、この人は違う。どうしてもお料理を作ってみたいって気持ちが強いから頑張れる。


アーティキュレーション
小口切りとか銀杏切りとか書いてあるのを色んな食材で練習してみる。本当に熱心ですごいの。だけど上手くいかないからフードプロセッサーを買ったら何とかお料理の形になるかもって買う。

次はフードプロセッサーを使う練習もする。
お料理本から離れてマシーンの取説を読んでいく。

トレモロ
混ぜる練習もする。卵混ぜたりクリーム混ぜたり、色んなことを必死でするけど腕が攣ってしまう。混ぜるのはブレンダーに任せた方が本物に近づけるかもって買ってみる。

ブレンダーの取説は割合簡単で良かったと思う。


強弱
皮剥き器で剥いて、フードプロセッサーでカットした食材を加熱するけど、中火って本に書いてある加減がわからない。

コンロのレバーの真ん中が中火なのか、できうる限りの弱火と強火の火のサイズの真ん中が中火なのか悩んでしまう。先生に聞くことノートに書く。


音質
お料理本にはクタッとしたら火を止めると書いてあるが、指示通り蓋をしたら見えない。だからガラス蓋のお鍋も買わなきゃと思う。お鍋ショッピングを始める。

**


生徒ちゃんケタケタ笑ってから "も~本当ですねっ! " としみじみ言ってくれたから、責めたんじゃないことが伝わって良かった。

お料理をしたい人が行なった多くの努力。それは前述の

  沢山回数を触れたらその分発見がある。

って考えから精一杯エネルギーを使って頑張ったのでしょう。
だけれど頑張ってる間、音楽と向き合えてたでしょうか。

もし

  より深部に触れたらその分発見がある。

と考えられたら違う形にも目を向けられるのじゃあないかしら。

其んなおしゃべりを生徒ちゃんにしたのは、上述の像がエスカレートして「ずっと頑張るのにいつまでも音楽に向き合えない方向を選んでしまう」ギリシャ悲劇的な結末にならないように願ったからでした。

今日はとりあえずこの辺で



弾けなくても大丈夫

January 18, 2019

昨日、生徒ちゃんにお話がちゃんと伝わったかなぁ?


免疫が下がったか風邪でも入り込んだかの変な熱の眠気をおぼえながら、会話を思い返してた。

'弾けなくても大丈夫' '弾けなくていい' は普段のレッスンで割合口にするんです。


これから音楽学校に入るとかじゃなく、違う道を進んだあと大人になって音楽を続ける方は「音楽と近くありたい」と望んでて、私はその気持ちを応援したい思いが強いです。


何故って彼らは音楽に対して非常にピュアだって感じられる場面に多く出会うから。

趣味というにはあまりに熱心な姿は、彼らの方が妙な音楽家よりもずっと音楽を必要としてるんだと感じる。


たまのレッスンでピュアな想いに触れさせてもらうのが楽しくて仕方ない。


だけど彼らは度々小さな間違えをする。
昨日訪ねてきた生徒ちゃんは、曲が巧く通らず止まってしまったのを残念がってた。

何回も、すごく残念がるから
それ・・・できなきゃいけないかなぁ? って言ったのでした。
間違えとは、生徒ちゃんのその日の目標のこと。


'ミス少なく・途中で止まらず・通して演奏できる' を目標の1つにするのは励みになるかもしれないけれど、第一目標にするのは違うかもなと自分は思う。


通せるのは、目標じゃなく結果で良いのじゃあないかな?


'通せた' は分かり易い目安になるけれど、
'通せた=演奏が完成した' じゃあないことは彼らが一番よくわかってるのに、無理矢理に '通す' ことに自分を押し込めると、折角得てた音を出す悦びが遠退くことさえあるんじゃあないかしら...

其んなお話をしました。


個人的な願いは、生徒ちゃんにもっとスラスラ弾けるようになってほしいのじゃなく、もっと感じ・もっと音楽を理解できるようになってほしいと思う。
それこそが最高に楽しいことだから。


スラスラ演奏できなきゃ立派なアマチュアじゃないって考え方だったら、音楽を聞くだけのお人は音楽を楽しめてないことになっちゃうよ? そんな筈ないでしょう? っておしゃべりしました。


弾けようが弾けまいが「理解する」ことは楽器に向かう人もレコードに向かう人もできるでしょう? って。

'弾けなくてもいい' って申し方は変てこだけど正直な想いです。
楽器に向かう場合も 'どれだけ弾けるか' の前に 'どれだけ理解するか' の問を据えてほしいと伝えました。

枝葉のところはまた後日に。
熱が上がってる。困ったな~





January 13, 2019

キッチンがあってリビングがあってその奥にちょろっと 'ももり' が見える。


手前の壁の1等左、オランジーナのカードが判るでしょうか? 木にオランジーナの実が生ってる絵・・・


昨年の終わり頃の月に、兵庫県立美術館を訪れたの。


まるでラ・デファンスのような、洒落てるのか殺風景かわからない感じがする此のエリアへ。

企業が集まる場所の風はラ・デファンス同様妙に乾いてて
私たちが生きる現代が怕いような、希望の扉もあるような複雑な気分にさせる。


ミュージアムロードのオブジェ "PEASE CRACKER" の脇を通り、ブリッジを上がる頃に興奮は始まってた。


レイモン・サヴィニャック展が近づいてきたからです。
プー時代のパリそのものみたいなお人。"パリにかけたポスターの魔法" ってコピーがぴったりの大好きな存在だワ。

大きな商業と手を組み、商業とコマーシャルアート双方を押し上げたチャーミングなパワーも好き。


甘酸っぱい気分にさせられる。胸がギュッとなる・・・


陽気な調子のプー楽曲が何故かほろ苦い後味を残すみたいに。

愛らしく跳ねて、快活に駆けて、ユーモアに満ちて、
ヴィヴィッドな色調が命そのものみたいに生々しくて、
通り過ぎた時代と愛が哀しみを誘うプーみたい。


お屋根のカエルさんに見送られながら
カエルさんと同じ色合いの楽譜があったワって思い出した。


帰っても展覧会の興奮はそのままに


カエルさんとお揃いの色の楽譜をファゴットルームに出し、
カエルさんとお揃いの色のオランジーナカードを壁に貼り、

美術館でたくさん買い込んだ関連品を1つ1つ袋から出す。
袋には高揚が詰まってた。

サヴィニャックの才能を通したパリのエキス。
観たり、読んだり、喉を通ったりして貯蔵されたパリの断片が
集積し、一風を成し、音楽になる幻影と幻影を超えた実感。

**

昨日のお掃除記録。
鯨はリビングルームとその周辺。裏口付近。

どこをお掃除しましょうか? って考えるのは大体排水溝のゴミ捨てと洗いをしてる時。無になってる間に次にすることを纏めてから動く。

始めたのはオーブンの中と外。熱い風が出るオーブン空気孔は意外にお掃除回数が少ない場所だわって思った。。

シンク上のキャビネットの拭き掃除も。
扉がついてるけれど定期的にクイックルスプレーと乾布で拭き取ります。扉の裏・棚の裏もネ。

普段のお掃除に加えてホンのちょっとの特別なお掃除で、おうちを通ってく風が透明になる気がするから好き。




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