L'air de Paris ⅩⅡ



ビート板に乗ったスケッチ

July 24, 2019

お水に慣れてきたらビート板に挑戦しました。


はじめはちょっと不安そう・・・蝶番君が支えて励まします。

上手に乗ってるワンちゃんがたくさん居たけど初めてのブルゴーニュ君にはバランスも難しそうね。


目の前で水面がちろちろ動くのを見て


耳の中では風が立ち、枝が擦れ、葉がざわめくあの曲が流れた。


いろんな場面で聴こえる曲たち。
歩いてたり遊んでたり会話してたり、日常の場面で何かの拍子に頭の中で鳴り響く曲たちが目の前の風景に重なるのがなんだか楽しい。





ブルゴーニュ君のジャンプを曲に併せて遊んでみたよ。



"月の光" と温度

July 15, 2019

クリムト好きのクイニーマンちゃんがアメリカのお土産を送ってくれたから、クリムトカードを幾つか添えてお便りを出した。


クリムトって一般にどんな '絵の温度' と捉えられてるのかな?

私はあの体温の低そうな肌の色が好き。


2枚目の写真は少し前お別れして屋根裏を去ったペーパー。


小学高学年から中学に上がる頃、大きめのカードルに入れてお部屋に飾ってた。

何てことない写真印刷のようだけれど子供時分は素敵に見えてたのかな? 冷えた外面をした景色に惹かれたナ。

何でも低い温度を表すものが好きでした。


音楽に於いては嗜好の問じゃなく、先日バシュラール の言葉が明かしてくれた理由だったけれど

  *モノトーンの力

この頃違った面も楽しむようになった。





上リンクの記事を書いた日に撮ってたムービーです。

添えた "月の光" は以前弾いてた表面温度が低い '月' とぜんぜん違う、華やかさのある '光'。

イメージは天空の厳くしさから離れた地上の、人間界で浴びる光。お遊びだけどネ、楽しかった。

(1分内のムービーにしたかったからテンポだいぶ速め)



モノトーンの力

July 05, 2019

予定外の病院でした。


そろそろ次のステップに行きたいな... と思うタイミングで決まって色んな事が後戻りしてしまう。

どんな形で取り組むか決定するまであまり考えずゆるやかに過ごすしかないわね。


叙情と叙事は必ずしも対義的じゃあないって考えを持ってて
そのせいかな、叙情を叙事に置き換えた風に見受けられる楽曲がとっても好きです。


一定の無機的な現代物に多い、其うしたタイプの楽曲を演奏する時、分かりやすく改変させることはせず、演奏者の手垢をつけない形を好んできた。


理解しづらいままだとしても原型に拘り、それを補うための曲解説のお話はなるべく平易にしようと心を配っていましたが、それだけじゃ不足だったナって最近思ってるのです。

『何故そうするのか』とかね、『分かりやすくするとはどういう手が加わる事になり、無垢なまま置くのは何のためか』っていう姿勢説明を全くしたことがなかったな~って・・・


お話したくても自分の拙い言葉では正しく伝え切れないと思ってたからですが、先日読み終わったバシュラールがまたも素敵な解き明かしをしてくれてました。


以下は版画のお話の続きに当たるところです。


  《版画家は、画家がわれわれに光の価値(ヴァルール)を教える、まさにあの流儀で力の価値を再発見させてくれるのだ。

そうした力の価値とは、厳しい努力の果てに戦い取られる起状、黒と白とだけのささやかな手段によってかち取られる起状のなかにあり、いまにも湧き出ようとしている、あり余る運動に満ちた形態のなかにあるものである。

  時に線は力の水路であって、見事な生命を目的地まで運ぶ。また時にそれは一本の矢であり、どこまでも傷つけることをやめない。

要するに版画は特殊な時間制を持っていて、遅滞も知らず、無気力というものも知らない時間のなかで動くのである。》


             (渋澤孝輔様訳)

版画であれば後から人の手で色をつける改変をしないで


モノトーンであってこそ感じられる線の力に頼るのが本来の形じゃあないかしらと考え、それを忠実に目指したかった心情を再び思い出し (しばらく超現代って弾いてなかったから) てます。


身体を冷やさないほうが良いのにアイスノンを頭や頬に当てるとスッとするから始終使っちゃうし、冷たいゼリーが大好きだし... いけません。

ブルゴーニュ君を抱っこしてお腹は暖めるように心掛けます。


■バシュラール 関連リンク

*本 -- バシュラール
*本と想像の隙間
*蕾、ワンコ、モネ
*錆びた日の答
*音の夢
*うたと夢
*感動した本の言葉
*プーランクと痛み
*弾き方はどうでもいい



弾き方はどうでもいい

June 22, 2019

午前中ブルゴーニュ君のためのお出掛けをしてました。
リズムを崩すの覚悟で。


体調の良い期間がチャンスだから・・・夢の越境をして神戸市を出てみたの。照りつける太陽に晒されて身体は疲れたけど大満足でした。


帰って夫とブルゴーニュ君と3人纏めてシャワーを浴び、スッキリしたらば静かに身体を休めました。


冷えたお部屋で本を読んだ。
バロック音楽を小さくかけてピンクグレープフルーツジュースをお供にバシュラールを。愉悦の極みの組み合わせ。

疲れで軽い吐き気は感じてたけれど美しい文章が体内に行き渡るような快さに任せて気がつけば3時間読書してた。


ジュースの氷がパチンていう音とバシュラールの語りが融合してゆく。


  《ベルクソンによれば、言語は内面生活を表現するのには適していないという。語の牢獄から脱するための手管や狡智が必要である、と。だからといってどうして、話すことの持つ羽撃くような性格や、充分に活気ある表現が得させる生の充溢をことごとく忘れ去るなどできようか?

群をなした語が或る思想のまわりを旋回するとき、語はその思想を目覚めさせ、若返らせ、駆りたてる。思想はそのとき文学で身をくるむ。》

             (渋沢孝輔様訳)


何故、彼の語りへの激しい愛や思想への渇望と同等の重さでもって音楽に触れられない筈があるだろう。


彼は語りに、思想に、'何故' を見出し紡ぎ出すことをやめようとしない。

しかし私が出会ってしまった幾人かは '何故' かと知りたくて投げた問に 'どうやって弾くか' の [方法] で応じる演奏者だったから失望し続けたのかもしれない。

それは問と答との不釣合いなどじゃない。
感性の論だ。


と言って何を感性が乏しいとし豊かとするかはそれぞれだから、「理由はどうでもいいからどんな弾き方にするか」画策するのを鋭く豊かな感性とおくなら別に構うところじゃない。


私などは殆ど下種会話の部類に放り込んでいる、「誰がどう弾いてたか」が演奏者の口から出る事も同様に。その人が '何故' そう演奏したかでなくね。

オーディエンス専門ならそれは楽しいお話になり素敵だが、演奏者が同じ言葉を口に乗せ [使うための試聴] の目的を持ったとき醜さを感じずにいられなかった。


必ずしも理屈が必要って意味じゃない。
どうしても此う演奏したかったから。自分の中の何かが此う演奏させたから。例えばそんな枯渇が源になる音楽を持つ人の演奏が聴きたいと思ってた。

そして渇けば必ず '何故' の自問は生まれるもの。
バシュラールがいつ [書き方] の話をした?
一度たりとも。
彼は渇き、問を紡ぎ、答によって潤ってゆきます。


■バシュラール 関連リンク

*本と想像の隙間
*蕾、ワンコ、モネ
*錆びた日の答
*音の夢
*うたと夢
*感動した本の言葉
*プーランクと痛み



感動した本の言葉

June 16, 2019

パーセルを聴きながらバシュラールを読んでて
感動的な箇所がありました。


バシュラール のお書き物はどれもこれも麗しい中、特に心動かされた。それは彼にしては珍しいと言えそうな形で批判を込めた文章でした。


  《デボラ・アイシ夫人は、ともあれ明察に満ちてはいる研究のなかで、右の四行に下降と上昇という「観念」の間の対立を見ている。》


記載の四行とは
-------------------------------------------
やがて私は木々の香に刺激され、力が萎えて、倒れ伏す。
そして自分の顔で自分の夢の墓穴を掘り、
リラが萌えている熱い大地を噛みながら、

私の倦怠が立ち昇るようにと、淵に身を沈めながら、私は待つ....
-------------------------------------------
というマラルメの "陽春"。


この四行を目にした際に多く人々が持つイメージの過誤を次のように紐解くのです。


《彼女にとって問題なのは二つの対応する文構造であって、ひとつは「伏す掘り大地身を沈めながら、という語で表されているもの。もうひとつは、これほど充分に展開されてはいないが、それと対照をなす、萌えている立ち昇る、である」と言う。

(引用者註:鉤括弧の場所は原文のまま)

反対の観念の対応性を際立たせるために、アイシ夫人は、その点で常識的な偏見に従いながら、を機械的に上昇の数のうちに入れてしまっている。まるで地下の生の夢というもの、掘り下げる夢というものが存在しないかのように!》


鼻血が出そうになるくらい共感し、興奮しました。


《彼女はこうして

-------------------------------------------
そして自分の顔で自分の夢の墓穴を掘り、
-------------------------------------------

という、マラルメの最も大地的で、最もボードレール的な詩句のひとつを読み損なってしまっているのである。》


嗚呼これこそ最も憎むべきもの!

読み損ないとは、読み取る力の不足ではなく観念の種類の貧しさだって教えられた。


バシュラール は続けます。


  《力動的なイマージュに無感覚なまま、彼女はその観念の対照のなかに、噛むというイマージュを取り込んでいない。

ところがこのイマージュが含む物質はただひとつ、事物のなかの大地的要素であり、このイマージュの基本的運動はただひとつ、下降である。

ものぐさに鵜呑みにすることしか知らない蝿取草ででもない限り、噛む存在はみずから進んで大地のほうへ、餌食のほうへと頭を下げるものなのだ。

マラルメが夢みるように「熱い大地を噛む」とは、噛むことの力動的存在論と、餌食の大地的存在論とを同時に発見することなのである。

             (渋沢孝輔様訳)


この大きな錯誤が、多数の人が読める '文字' で起きる。
文字より少数しか触れない '音' の上ではどれ程歪められてるでしょう。


私たちがミケランジェロの色彩表現を近年の修復後はじめて識ったように、バイアスのかかった思い込みが無根拠に幻を作る。

バシュラール の切取りのエッセンスに感激しました。


■バシュラール 関連リンク

*本と想像の隙間
*蕾、ワンコ、モネ
*錆びた日の答
*音の夢
*うたと夢



テレビドラマと譜面貼り

June 11, 2019

とっても体調が良い日々が続いてます。


空は時々雲で霞み、また陽が顔を出す。

病院準備が早くできたから、朝はコピー譜を貼ってた。
プリンターが家に当たり前にある時代が有り難い。

最も頻繁に譜面コピーを繰り返した大学生の頃は、学校前の本屋さんのコピー機が大きな音を立てる前でよく待ってた。


分厚い楽譜と、コピーし終えた大きなサイズの紙の束を抱えて
膨らんで重たい鞄を持ち、楽器奏者は楽器も背負い、
やっと腰かけると製本また製本。


夜中に製本途中でコピーの失敗に気づいたら、翌日まで待った。
今のような数で建ってはなかったコンビニにコピー機を置いてなかったのかな?


ごく普通におうちでコピーしながら同時製本できる今は有難いなぁって改めた思った朝でした。


譜面を貼りながら、録画してあったNHKの "女王ヴィクトリア" を観た。

描かれるヨーロッパ史の奥行きに反して抑揚が少ない雨模様のような画面が心地いい。

今週放映分はルイ・フィリップ王に会いにフランス訪問する回で特に楽しかったです。


病院へはバシュラールを持って行くつもりがドラマに影響されてオルレアン公周辺をおさらいしたくなった。


歴史本を持ち出した。重たくって失敗。でも楽しい。フランス史は本当に楽しい。

朝の作業、フランス曲の譜面。
楽しみな画面、ルイ・フィリップ登場のテレビドラマ。
病院の待合、フランス史の本。

繋がる日常と音楽。大切なサイクルです。



シネマ記録(41)ボヴァリー夫人とパン屋

June 01, 2019

'穴' の隅っこ、ブルゴーニュ君のオヤツテーブル。


ジェンツーペンギン先輩に頂いたチェコの木製スノーマンが座ってる。このコーナーにぴったりだワ。可愛いから夏もずっと出しておくつもり。


ブルゴーニュ君のお散歩用バスケットを 'ギュス' と名付けた。


公園やいつもの道をお供してくれるギュスは、映画 "ボヴァリー夫人とパン屋" に出てくる愛らしいワンコのお名前でした。

フローベール著 "マダム・ボヴァリー" の酔態のような姿と倦怠は、文学の粋の結集のようでしたね。

フローベールの此の小説を偏執的に愛する初老男性のパン屋さんが、映画 "ボヴァリー夫人とパン屋" の主人公です。


すっごく楽しかったワ~♪


お隣に越してきたボヴァリーという名の女性を、小説 "マダム・ボヴァリー" に重ね、妄想に走る文学オタクの変態的な執心が描かれてゆくのです。

舞台のノルマンディーの片田舎とボヴァリー夫人役のジェマ・アータートン様のナチュラルで魅惑的なお姿とのカップリングは官能的でうっとりしました。


執着気質を描いた映画を求め、フランス映画を追いかけて


映画の中にフランス文学やフランス哲学が登場すると生唾を飲むくらい嬉しく甘美な迷夢が心を覆う。

フランスへの固執は終わりがありません。


*シネマ記録(40)恋人たち
*シネマ記録(39)髪結いの亭主・他3作
*シネマ記録(38)桟敷とアデルの第二主題
*シネマ記録(37):天井桟敷の科白メモ
*シネマ記録(36)アデルのアフリカ
*シネマ記録(35)天井桟敷の人々
  *井戸
*シネマ記録(34)パリ20区 僕たちのクラス
*シネマ記録(33)小メモ5作品
*シネマ記録(32)アデルを追うサルトル
*シネマ記録(31)子供
*シネマ記録(30)アデルに凍る
*シネマ記録(29)アデルの迷路
*シネマ記録(28)アデルとティレシアス
*シネマ記録(27)アデルのブルー
*シネマ記録(26)アデルの茫漠
*シネマ記録(25)アデルの門
*シネマ記録(24)アデルの気後れ
  ?僕が見た映画DVD
*シネマ記録(23)アデルの生涯
  *映画DVD
*シネマ記録(22)僕のおじさん
*シネマ記録(21)ゾラと失敗
*シネマ記録(20)ムード・インディゴ
*シネマ記録(19)大人は判ってくれない
*シネマ記録(18)あこがれ・アムール
*シネマ記録(17)ランジェ公爵夫人
*シネマ記録(16)セラフィーヌの庭
*シネマ記録(15)フランス組曲
*シネマ記録(14)ブルゴーニュ?
  *怒られるわ
*シネマ記録(13)赤と黒・他
*シネマ記録(12)パリは燃えているか・他
*シネマ記録(11)大いなる沈黙へ
*シネマ記録(10)アデルの恋の物語
*シネマ記録(9)カミーユ・クローデル
*シネマ記録(8)ミッドナイト・イン・パリ
*シネマ記録(7) 愛と宿命の泉Part.2
  *フロレットという女性
*シネマ記録(6) 愛と宿命の泉Part.1
*シネマ記録(5)たそがれの女心
*シネマ記録(4)カラヴァッジョ 天才画家の光と影・他
*シネマ記録(3)エゴン・シーレ 愛欲と陶酔の日々・他
*シネマ記録(2)宮廷画家ゴヤは見た
*シネマ記録(1)モンパルナスの灯・他



うたと夢

May 18, 2019

リード置きっ放しに見えちゃうけど大丈夫。写真フレーム外のトコロを蝶番君が握ってますヨ。


全身だるい日にバシュラール が大きな慰めです。

昨日の続きをバシュラールは此う語っています。


《もしもあらゆるエクリチュール以前、物を描こうというあらゆる意志以前、記号を明示しようというあらゆる野心以前に、


ある大夢想家が、魔術的物質の内密な夢に導かれるに委せ、
染みの打明け話のすべてに耳を傾けるならば、

そのときにはインキは、白のうえに黒くみずからの詩を語りはじめ、おのれの結晶の遥かな過去の形を描きはじめる。


それというのも、結局のところ、ジョゼ・コルティは何をつくろうとしたのか。


インキだけがそれを明らかにすることができる、というのも、これらの "インキの夢" は、まさしくインキが見た夢だからである。

ジョゼ・コルティは、文字通りこの黒い液体の意志に従ったのだ。》

             (渋沢孝輔様訳)


麗しい思念。


楽曲が見せる天地を描くにはインキの夢に委せなければとの思いは自分の中でも永く続いてたのに、言い表すことができなかったです。

バシュラールのお陰でようやく言葉として認識できたのです。

そしてインキに任せるとは、インキが自然に紙に染み出てゆく構造を連想させ、それは「音を出す際の摩擦の無さ」を取り上げたところへ繋がるのです。

  *発声、いいの?
  *正規の発声?


音は既にそこに存在していなければならない。
インキがそこに在るように。


音が何を形づくるかを音に委せる。
インキが 'みずから語る' に委せるように。

こんな '音を出そう' と、インキ生産意図が加わるともはや
《物を描こうというあらゆる意志以前、記号を明示しようというあらゆる野心以前》じゃなくなる。

その難しさを最も大きく受けるのは器楽より歌なのでしょう。

だから一部の人はインキの物質と色に拘るのか?
インキが夢を見る前に?


■バシュラール 関連リンク

*本と想像の隙間
*蕾、ワンコ、モネ
*錆びた日の答
*音の夢



音の夢

May 17, 2019

プロコをお稽古してた。彼の乾いた曲が好き。


白く老いて水気を失った皮膚の下に、粘性ある温度の高い血が流れるのを見る不思議に似てて好き。


プロコが再びマイブームだが、

  *失禁的なやつ

以前はプーのお友達って視点からは弾いておらず、新しい見方を発見したのが嬉しくなってる。


喜んで弾いてると小指の爪と指の間に鍵盤の角が入っちゃった。
偶~にあるけど割とイタイ。


小さな隙間にうまい具合に入るとダメージを受ける。しばらくそのまま弾いてたけれどテンション下がってスゴスゴと穴へ来ました。

休めて丁度良かったかも。昨日、暮れたのちの冷たい風に当たったら微熱が復活したから。


穴のテーブルに開き置かれた大好きなページを抜粋します。
バシュラール "ある物質の夢想" より


  《インキは、もし自分のための夢想家を見出しさえすれば、その錬金術的染料としての力、彩色的生命によって、ひとつの宇宙をつくりなすことができる。

その証拠がここ、この黒いアルバムのなか、黒と白とのこの感動的な相剋のなかにある。たった二十四頁で、ジョゼ・コルティは、夢みるインキにその失われた結晶のすべてを返してやっている。》
             
             (渋沢孝輔様訳)


ガストン・バシュラール の美々しい思想を味わい、同時にここでのインキが音の存在となるよう願いました。


音符が、音が、夢を見て
彼 (音) が感動を抱き、思想を持ち

演奏者のための彼じゃなく
彼が自分のための演奏者を見つけて楽曲が流れるとしたら

そんな麗しい音楽は他にないのじゃあないかしら。


自分なりに求めてた、描く者のあり方と描かれるもの応えの形の一つじゃあないかなと思った。

  *錆びた日の答


聞かせるために操作する音楽に気味悪さを強く感じた感覚は、
奏者という人が聴衆という人ばかり見て行なう、音楽無きイベント部品に音を用いる振舞いに物悲しさを感じてた。しかし

楽曲に答える音という難解な括りの前に
インキの夢のような音の夢があるなら、
奏者を選んだ音が独り夢想し放たれる音楽を掴んでみたい。


■バシュラール 関連リンク

*本と想像の隙間
*蕾、ワンコ、モネ
*錆びた日の答



和は360°

May 07, 2019

近ごろ読んでるバシュラールが相変わらずあまりに素敵で、布張りのサラサラしたボルドーの表紙を撫でたくなる。


心の中心にフランス音楽を植え付けてくれたものの1つがフランスのエピステモロジーです。

彼ら思想哲学者の言無しには、到底フランス音楽を僅かも理解しえなかったろうと日々感じます。


近年... と言ってもおよそここ35年、考えてみてる事に拠ると音楽との関わりは「有限鎖によって線分の閉じた形」って部分を重要視する多角形でできてる。


何故って線分は閉じなければ外角の和が360°にならないから。

角 (カド) を形成してくれるもの、イコール音楽と自分との様態を作ってくれるものは1つ目の哲学のほかにも様々な事から恩恵を受けてます。


コーナーテーブルに目を遣れば、一見して色付きがわかっちゃう古びたオクトゴナル。サラディエに使われたお品かな?


モントローの (このサラディエの場合) 町の歴史に触れられるフランスの古いテーブルウエアも、カドを形成するお役目を果たしてくれる大好きな物。これ2つめ。

フランス手工芸の粋が広く映し出されますよね。
そしてフランス音楽は工芸要素が強くもある。


サラディエの中身はプルーストのポケットブックと、プルーストに関する著作。


フランス文学のカドは多角形内部の三角面の大きな所。3つ目です。

プルーストの脇がラテン語のミサ典書。
ガラスプレートの2つのフェーブも同じカトリシズムというカド。
重要な4つ目。


大小取り混ぜ外角を和する。
自分の中ではこれが重要。


トロンと眠そうなブルゴーニュ君。君はどんなカドでできてるかな? 抱っこと、撫で撫でと、ブラッシングと、お膝と、お散歩が君のカドですか?



ミセス・ハッポウ

March 27, 2019

葉牡丹の摘芯前にパチリ。


徒長気味の姿もスラリとしたシルエットが好きなのです。もったいなくて切戻すタイミングを逸する駄目駄目なアマチュアガーデナー。

"アリス" っていう種類で、気温や光で色が変わるの。

2枚目は "ヴィンテージベイン"。
葉脈が綺麗に色づきます。

バックにくる予定だった蔦を刈り込み過ぎて、背景がハゲハゲな写真です。


同じ植物をずうっと育てたらもっともっと深く知ることができるでしょうけど、病院の間にぽつりぽつりお世話しててお花の知識もなくいい加減。


その割に色んなお花が好きで目移りして、ひとつの科に絞って育てるなんてとてもできない。


小さな日常のお庭ならそれでいい。音楽の場合は違うな。

昨日の記事のように音楽との関わりはフランスに絞ってフランスばかり追いかける事について、偶に知人に問われる。

  理由の1つは決まり切ってて、フランスに恋をしてるから。
  2つ目は主義として。2つ目が普段上手に説明できてない。
  今日も纏まりはしないけど試みますね。


例えば東洋音楽の演奏家です、って仰る西洋人・仮名ミセス・ハッポウが居るとするでしょう?


もし彼女が「日本の音楽もよく弾くし、中国音楽は特に好き。この間リサイタルで韓国の曲を弾きました。ミャンマーものも仲々イイんですよね。」と言ったら多くの音楽家さんはどう感じるのかな?

尋ねたことがないから分からないけど、納得される筈なのです。何故ってとても多くの方々が東西を逆にして此の通りのことをされてるのだから。


ミセス・ハッポウはたくさん生徒さんも教えてる。


「生徒にも中国音楽は弾かせてるし、韓国の曲の面白さをしっかり伝えてる。カンボジアの曲にも生徒達が興味を持つようにしてます。」

こんな事をハキハキ答えてくるミセス・ハッポウのやり方を、成程と納得しなさる筈だ。


私は自分自身がそれ (色んな国の曲を弾く事) をできないから、別な風に考えてしまう。

ミセス・ハッポウは上の科白だけでもう、彼女の音楽が信用できない気がしてしまう。ただのアヤシイ外人にしか見えなくなる。


東西を元に戻して... 自分ができないから、出来ると言ってる人が理解できないんだと思う。


そんな事ができるなんてイカサマに見えてしまう。

西洋音楽と関係のない言葉を話し、関係のない慣習を持ってるだけで大きなハンディがある筈だのに、ハンディをものともせずにあらゆる国の音楽に精通することが全く考えられないのだ。

私なんかはドイツやオーストリアの音楽は、日本のピアノ教育で比較的偏って教わることとなる分量を普通の音楽学生と同様に撫でただけ。音楽と密着した音環境である言語も話せないし世界史の一環のサラッと上澄みの歴史しか知らない。文学も絵画も多分フランスの40分の1も触れてない。

哲学はだいぶ好きだけど、他は何も知らない。ドイツ人彫刻家を挙げなさいって言われたら恥ずかしながら1人しか絞り出せない(すっごい変な事かも)。それくらいドイツの芸術を知らない。


生活感覚として音楽を理解してない。だから身体の中から音楽が出てこない。


分かってないのはドイツ音楽だけみたいな書き方しちゃってるけど、そうじゃないです。

フランス以外の殆ど総てを「分からない」。

フランスと、フランスに直接的に関わった一定の作曲家だけは「どれだけ分かってないかくらいは判断できる」程度に理解してるつもりになってるけど、それだって間違いかも。

だから分かるまで追いかけたい。

そしてやっぱり自分には、ミセス・ハッポウ達の超能力じみた天才ぶりで以ってありとあらゆる作曲家の曲を演奏しちゃうことに、ドイツ音楽よりもっと遠い隔たりを感じてる。

私などがそれをすると、ぜ~んぶ我が家の葉牡丹みたいになっちゃうもの。あと900年くらいは勉強しないととても理解が追いつかない。だから希少なたった1つを大切に大切に温めたいのです。



音楽の本を読んでないお話

March 05, 2019

先日シマエナガ先輩とおしゃべりしてた流れで、自分は音楽の本って読まないですね...と言った。


あまり考えず口に出して、後で一人になった夜にそれってどうしてだろう? と考えた。


振り返れば、三善晃先生・遠山一行先生・西原稔先生はじめ近くに居てくださった先生方が語られる続きのお話を聞きたいなぁって気持ちでお世話になった方々のご著書は手に取った。

其れらは '人ありき' で成立する読書でした。


'この方がおっしゃることを知りたい' って構造と 'この内容が知りたい' とは、実は遠くかけ離れたものじゃあないかな?


無論ティーンの頃はお勉強の一環で、知らなければならない事に手当たり次第に目を通しはした。でも私がした其れは読書じゃあなかった。

事柄を取入れようとする行為に他ならなかった。ページに書かれてることを '得よう' とする目的があった。タイトルに釣られて選んだそんな本たちは筆者も憶えてないのが実情・・・

今の自分は其うじゃなく、お人を通したものの見方に興味を抱いてると思う。


上手に申せないけれど... 'この方がおっしゃることを知りたい' は、著者を人として受け止めるような感覚カナ? お小説ならプルーストが読みたいとかゾラに触れたいなど作者の筆で空間が覆われるのを望む感じ。


それに対して私の場合はですが、'この内容が知りたい' と手に取るのって、其処に書かれてる事が信頼に足るかどうかを自分自身の眼で選びとってない場合が多いってある年に気づいた。


どんな方法でも良いものに出会えればall rightだけど、自分には 'どなたが語られる事か' が大事なんだと思う。'何が語られるか' よりもネ。


'何が' の内容は筆者のほうが選び、そのままを受け取るやり方がとても好き。其うしたくなるほど愛してる著者を追いかけていたい。


たとえばジャンケレヴィッチ氏がある日はラヴェルを語り、別のある日は倦怠を語るそのままを悦んで享受するのは、

物事との関わりじゃなく人との関わりとして見たいからかも?
側に寄る夢も叶わない彼らを理想と据えて追いかけたいのかも?


って風に読んでると、いわゆる音楽書に照準が当たらなくなる。


  音楽書には音楽のことが書いてあるでしょう?
    だからかな。
      読んでもあまりわからないのよ・・・

内容的には理解できます(そりゃそうだ)。でも感覚に触れてこなかったりする。


歴史書・社会学書は歴史と民族に培われたもののシルエットが湧き上がるように現れ、
哲学書は国の気質を洗い浚いぶちまけるように示してくれる。


文学書は国と年代と、他国との関係背景を「感情的な歴史」のようにも見せてきて、


詩は息遣いで音楽を示してくれる。音楽そのもののように神経を鷲掴みにしてくる。

そんな全部と手を結ぶ音楽の姿が、全部を読むと少しずつ描出される。それこそがダイレクトに中枢神経に入ってくる。でなければ「音楽のことを読んだ」気がしないってニブイのかな?

音楽の本を殆ど読まない理由はこんなところでしょうか。読まないことは決して推奨されるものじゃあないけれど、読んでもよくわからないから仕方ないのよね・・・


*音楽遊び計画とルソー
*使えない音楽



使えない音楽

February 19, 2019

真ん中に跳んでるイルカさん。右のほうに親子イルカさん。見えるかな?


神戸大橋の麓、神戸北公園を通ったのでした。

此処でお話してたのは、出会ったばかりの頃に行った本屋さんでの事でした。


どんな本を読む? っておしゃべりし合ってる内に夫はhow to本を罵倒したの。


あれ良かったナ・・・

一定の人々の間に居るうちはまったく当然の考えとして其れまできたのに、音楽系の人達を傍観すると「使えそうな本」を読むのを目にするようになってた。(参考書としてではなく、研究書は読まないまま主観的な本を参考書代わりにする格好)

だから演奏者の口から「使える事、という考えの否定」を久々に聞けて嬉しかった。


"使えて役立つことが書いてあるなんて駄目だよ" って夫が言ったのは例えば、初めて釣りをするのに必要な物を揃えるために読むことや、初歩のお弁当作りのコツを否定するものではないの。


その場合は是々を得たいって目的に応じた実践の参考書だもの。


其うじゃなく「何かに使えるだろう」「何かの役に立つかも」って助平心で取り敢えず '00の生涯' 的なのを読んで終わる虚しさを言ったんだって思う。(1人の作曲家について100人の筆者を比較するなら佳所多しと思うが)

スピリットより役立ちそうなほうを見る中空を彼が毛嫌いしたのでした。そんな、何年も前のふとした会話を思い出したのは


やはり音楽を巡るあらゆる事柄を「使う・使える」と選別する行為に決して音楽的な美しさを感じない、って夫とおしゃべりしたからでした。


この先もしコンサートに参加したり人様にお話しようとする日が来たら、使えず何にもならないことをおしゃべりしたい。これまでと変わらずネ。

  《使えないもの。何の役にも立たないもの。
   そして音楽が美しいと教えてくれるもの。》

それが自分にとって総てだナ。
多くの教師が音楽にメリットを持ち込みすぎだと常々考える。

使えるからやる、使えるから便利、やったから使いたい
何のために?

何のためにユーティリティーに置き換えて、何のために自らの発想まで醜く変色させるんだろう。

元々は美しさのためじゃなかったのか?


噴水は冬の夜も噴き出していて
誰も居ない公園に、暗い中で小さな虹を作ってる。


真ん中の上のほう。見えるかな。


'すぐに虹が作れる・使える虹・虹がよく見える方法' なんて寒々しい講釈は要らない。

この虹は「使えない」。
何にも使えていない。

使えない虹が今夜も現れることに美を感じないだろうか?
感じるとすれば、それが音楽の一片だ。

音楽要素は使うものじゃない。



エリュアールとクラゲ

February 17, 2019

嗚呼エリュアールはなんて楽しいのでしょう!


プーのカンタータのリンクを昨年末に貼ったのをきっかけに改めて聴きはじめて、つくづく素晴らしい曲よねぇって・・・

エリュアール詩もお部屋でも通院でもしばしば読んでました。


'大地は青い。オレンヂのように' の詩が特別に気に入ってます。


エリュアールはひとつも訳してないし翻訳本に此の詩は入っていないからとても素敵な壺齋散人様訳のリンクを貼らせていただきますネ。(ご了承はいただいておりません。もし問題があれば削除致します)

あまりにも好きになったから今年の色紙展は此の詩のイラストにしました。


バックは水彩。
文字はチョークとクレパスを重ねました。


今年もブルゴーニュ君が登場しています。ブルゴーニュ君のお隣を歩くのはクラゲ。詩の中にクラゲは出てこないけどネ。


リラの色が大好きだから、使った絵の具も似たような色多し。


乾くと3色の差は微妙にしかわからないけど(笑)とっても楽しんで描きました。


■エリュアール関連リンク
*チャイコと雪とプー
*2019年元日



お箸とフォーク

February 14, 2019

「フォークとナイフが出てくるところは肩が凝るから」
と避ける小父様方が居られる。


そんなの全然構わないけど仰ってる理由は違うよね・・・
って風な理屈を捏ねたのは、恋人時代の夫でした。


"箸さえ出てくれば肩が凝るって言わないのか?
嘘つけ。懐石で箸が出ても肩が凝ると言うんだ。


[肩が凝る] のはフォークか箸かじゃない。
[きちんとするのが苦手] なのをフォークのせいにしてるだけ"

って今より少し若かった夫が言うのを聞きました。

この時は消費者側に照準を合わせたお話だったしニュアンスは異なるけれど、真反対の例もある。


先日もやもやした '城' も似た構造があると思うな・・・

  *


先回は [親しむ] コトのおしゃべりをしました。
もうひとつキーがあって...

[親しめるようにしなければ] って実施する側が考えてしまう始まりは、もしかしたら「クラシックはとっつき難い」って理屈を信じちゃったせいじゃあないかしら。


[フォークだから肩が凝る] の例のように、表現側が実際と違う理由を何らかのはずみで (ご本人が感覚を勘違いしてるか、若しくは敢えて事実と異なる表現を選んでるかは様々でしょう) 口にのせて生じた誤解・・・


演奏者はその表現を鵜呑みにして「とっつき易くすれば聞いてもらえる」「とっつき易くしなきゃいけない」と思ってしまった。

そんな図があるのではないかしら。


本当は [とっつき] が理由なんかじゃあなかった。


相手は離乳食のベビーちゃんじゃないんだから、とっつきが理由だなんて信じるのはお客様を馬鹿にした話にも思える。

「どうやっても好きになれないし今後も聞く気はない」とハッキリ言うのは日本的には角が立つから、どうもとっつきが悪くてねぇ... とやさしく濁しなさってるのに、何故か鵜呑みにして [とっつきさえ良くすればいいんだ] と赤子をあやすような様相でゴリ押しを続けるほうがどうかしてるんじゃないのかな。

なんてことを熟ら思ってる病院帰り。





February 10, 2019

もやもやする。


クラシック音楽に簡単に親しめます、的企画に先日非常にもやもやした。

歴史を漫画にしたり古典を絵本にしたりが大変有用に成立してるものも多いです。でもね紙に残って繰返し読んで繰返し感じ考えることができる漫画や絵本と、その場で消えてしまうコンサートは違うな。

ナンテ多分やってるほうもとっくにわかってるのよネ。


とっつき易い音楽の入口と漫画の入口は残す形態が違って、だから人の中に残るものが違ってしまう。


ご本人もわかった上で 'これで親しめます' って詐欺を続けるってどうなの? っていうもやもやですかね。

どの世界でも詐欺の手口って進化し巧妙になってゆくのに、音楽界はどうしてガラ携初期と同じ手口をまだ続けるのかなぁ。


企画はそのままで良いと思うのだ。


「その瞬間だけ親しんだような錯覚に陥ります」と正しい説明が必要なのだ。加えて

「しかし音楽に親しむことの本質は元来こういうことではありません。[親しむとは何か]のミーニングをお互い考えないよう見ないよう騙し合ってどれくらい満足できるかやってみる企画です」

ってちゃんと言えば、参加型ゲームとして成立するのにな。


目に見えず形を成さない音楽だから、消費者が間違えることを狙った紛らわしい広告みたいなギリギリ嘘じゃない抜け道は沢山あるでしょう。


其んなペテンじゃなく、'親しんだ気分にさせる実態は音楽をチャチに変えただけ' の構造を掘り起こすゲーム視点なら、たとえば音の聞き取りなんかできなくたって弁証法として突っ込む参加が出来るし意義もある。

それは音楽を安手にしないという意義だ。


娯楽がこれだけ増えれば人々は分散し、クラシック音楽に目が向く機会が減るのは当然。


それでも世紀を越えて残ってきたのは美しいからじゃあないのかな。クラシック人口が減ろうが美しさは砦のはずじゃないか。

ソッポを向いた首根っこをひっ捕まえて 'ほらほらこっちを見てくださいよ、ねえ!' と懸命なあまり詐欺広告的に変わっていって中身はチープになり、これは違うと1番分かってる自分をも騙し続けた先に何も無い。


誰かを無理に振り向かせる必要なんてあるのかなぁ。
美しいものを求める人が吸い寄せられる美しい城であればいい。


*入口・出口



ソース論

January 28, 2019

サヴィニャック展で求めたミニ図録を飾る。


ちょっと怖い雰囲気もあるイラストは映画ポスターになったもの。可愛めのコーナーに仕込んだりして。
綺麗とエグ味はプー的配分が自分にとっての1番です。

**


音楽評論に関して知人とおしゃべりした。

音楽論は好き。
読んだ経験内ではどれも大好きでした。

ジャンケレヴィチみたいに思想哲学に高められ審美学にまで昇華してるお書き物は本当に素晴らしい。


美しい音楽論 = 楽曲論 = 作曲家論があるのに対して、演奏評論はロクでもないのしか読んだことがない。


大昔に読んだきり厭になってCD解説さえ目を通すこともないから現状は知らない。ロクでもなくない評論があるなら是非読んでみたいって思う。ん? いや、やっぱどうでもいいかな。

基。

演奏評論を職業とした(それは一体何ぞや?)書き物に限ってロクでもないのしかお目にかかったことがないのであって、演奏者様自ら実践力を伴いつつ書かれた古く短いお作は興味深く読んだことがある。

それらは職業的なお書き物じゃあなかった(何故って筆者は演奏がご職業だった)から、文芸冊子の端にちょろんと見えたような筆だったが、演奏者が体験を以って単一曲を取り上げてらっしゃるイデに賛同した。


と、知人に言ったのです。


私たちのおしゃべりは

《音楽論は精神性の高いものは無論アリで、それらは至極文学的で美学要素が実に高い。該当楽器演奏者が書く演奏評論も面白い(例えば声楽家による歌曲演奏解説。歌曲解説ではない)。別楽器演奏者の演奏評論も場合によりアリ。
しかし弾かない演奏評論は完全にナシだ》って話題でした。

その意(ココロ)は、媒体が楽譜であるかどうかです。

弾ける・弾けないは指や腕のメカニックの問題じゃなく、譜面に触れ、作曲家の言葉として譜を理解し、先人の演奏に頼ることなく自らの中に "音楽が物理的に立証できる形として生まれているか否か" が '弾かない人間の演奏評論は論外' の理由です。

知人同士の戯言ですが。


重ねますが弾く・弾かないは演奏能力の有無等ではありません。

  *弾けなくても大丈夫


他人の音楽観を介さず、作曲家の言葉をダイレクトに受け取る事が自ら弾く以外の形で得られれば問題ないわけですね。最低限、奏者と同等の理解をすれば良いだけです。

黙読という手も無くはないけど、黙読だけで全部の和音ニュアンスを総合的に理解するのは相当音感が良く博雅な演奏者さんでも先ずもって無理なお話・・・ 

音に対し体が指が腕が即反応する演奏者は、耳から入る一定の音質を鍵盤の重さや感触として直ちに知覚してゆく人が多いでしょうが、それでも脳内だけの再現が難解な楽曲は数知れずあるわけです。

はてさて其れを踏まえれば弾かない評論者つまり小脳と大脳が音に関してストレートに繋がらず、昔ならペンを握って暮らす人にとって音がない黙読の場合に脳髄でどのような理解と再現がなされるか。

そりゃあもう不可能or思い込みの2択しかないと話した。


思い込みが多々あるだろうと突っ込まれて然るべき黙読でもなく
自ら1音ずつ譜面から拾い上げて音を出すこともないなら
楽曲を決定づけるソースは他人の演奏?


AさんBさんCさんのココとアソコを貼り付けてDさんのイメージを足した感じがこの曲... みたいな詐欺まがいを「その職業のベース」にする人も昔は居たそうで仰天するが、今時は聴き比べだけで '職業的に金銭を得て' 楽曲への基準を決定づける奇々怪界はご本人の名折れになるだけだからさすがに無かろう。

知人はアレルジックな演奏評嫌いだけれど音楽論についてはなんにも言及してなかった。その知人がふと口にした。

'音楽論も、既存の演奏をソースにすることがゼロではないと言いきれるか? '

言い切れないですよね。でも音楽論(楽曲論)の場合、他者の演奏から受ける印象を参考にするのは楽曲理解を助ける一環としてアリじゃないかな? っていうのが個人的意見なのよね、今のところ。

2つは根本的にスタンスが違いますね。

作曲家の言葉である音符をどう受け取るかが音楽論で、演奏評論は「こう受取り、だからどう表現したか」という「行為に対する批評」で、その場合「どう表現できる可能性があるか」を筆者が知り尽くさなければならない。「どう表現できる可能性があるか」は1音1音を譜面から拾い、洗い出し、選定する以外に道がない。

対して音楽論は表現の可能性には触れるのは必須ではなく、作曲者が何を言い、それをどう受け取るかの可能性を解くものだから。



ラ・フォンテーヌ的会員を辞めた話

January 20, 2019

イルミナージュ写真の最後です。


動物さんオブジェに静かにテンションが上がるブルゴーニュ君。
視覚からお友達がいるって思うのカナ。とっても嬉しそう。


昔入会してた音楽の集まりを何年か前に辞めたお話。

企業様も在籍され、維持に貢献いただいてお世話になったが
会自体は音楽界を発展させましょう的に月並みな名目を掲げる割りに、発展とは何かのビジョンは無くお粗末だった。


避けもせず、積極的に参加もせず、関わりは流動的だった。
流動的な関わりが公認されてたから会員で居たと言えます。


ある年、地域の音楽活性化事業の一環で居住区域のコンサート活動に関わってくださいって呼びかけがあった。

呼びかけの書面とスケジュールが封筒の中に入ってた。
地域のコンサート事業に割くことが可能な日にマルをつけてFax返信するようになってた。

--- 郵便物は開封せず棄てることも多いけど、会員である限り会費は滞りなく払う。封を開けたのは振込用紙在中の印がある便だったからと思う ---

  70歳代の御大が差出人兼・事業責任者だった。
  バックレてやった。


説明文を見て、オイオイと思ったからだ。


最底辺に堕ちたクオリティのまま活動だけ活性化したら、悪玉菌を量産するだけだろうが! と苛立たしく感じた。同時に、悪玉菌が同類子孫を増やそうとするのも生存本能かと納得もした。

ならば私は断固反対だ。

馬鹿馬鹿しい悪玉種通信はバックレるのが環境保全のため、と迷わなかった。


責任者当人から電話がかかってきた。


大御所と呼ぶには眉唾感満載だが何故かオオゴショってことになってる、よくあるパターンの単なる老夫だ。

まあまあ感じ悪い応対してみせた。

返信を急かしてきたから「返信しないのが返事だと何故わかりませんかね?」と言ってるのに、相手は私からのFaxがないと繰り返す。音楽センスだけじゃなく耳と頭も悪いのか。

"返事はね、だからFaxでって書いたでしょう。Faxだよ君。"
臭い息が電話から出てきそうな無神経で汚い声が響いた。

わかりました。


確かに会員の義務の返信を、書かれてる通りFaxでしなかったのは良くなかったワって反省した。


反省したので言われた通りすぐFax返信した。

  音楽xx活動とFaxが義務なら
    本日音楽oo会を辞めます

可能な限り大きな太字でA4用紙一杯に書いてFax返信した。

確かにFax送りましたからねー。


送信直後に事務局へもお電話し退会を申し出た。
事務局には何の手落ちもないのだから丁寧に接した。


会員条件を満たして入会したが、後から自身が非承認の馬鹿馬鹿しい義務を課し、選別の選択肢を与えないようなタワケ者が幅を利かせる野蛮な処なら会員を辞めるまでだ。何でもない話だ。

何となくラ・フォンテーヌがセレクトする傾向の寓話が頭を過ぎったので厚かましいタイトルをつけてみた。

"どうしてもFaxを送れ" と苦情を言ってきた媒体が電話じゃなくFaxだったら、もっと面白かったのにと関西人として残念に思う。



ギリシャ的ピアノ話

January 19, 2019

下の方から熱心に景色を眺めるブルゴーニュ君の頭。
何を思ってるんでしょうね。


イルミナージュの写真を整理しちゃいたいから載せてゆきます。


昨日の話題周辺の事をもう少し・・・

  *弾けなくても大丈夫

何をするにつけ目安がほしい方は多いと思うし、励みにもなり、特に子供さんには有効な事が随分あると思う。

ただ自分が大人のかたにするレッスンでは、音楽と達成感を混同させないよう心がけます。達成感などでは測れない深部の理解を最も大切にしたいです。


熱心な生徒ちゃんは色んな方法でお勉強してくれるんです。


先回は "音源をかけて、テンポには追いつけなくても上の音だけでも何とか拾って、流れを掴む練習をしました" って。

"全部の音はまだまだ聞けなくても、何回もやってるうちに分かるようになるかもしれないと思いまして・・・" とのこと。

  ああ... はい、なるほどですね~... と思わず
  今時の部下が上司に言う間違った言葉遣いしてしまった。
  傷つけずに指摘する方法を探って変なお返事になった。

2,3秒悩んで、音楽に関係ないかのおしゃべりを始めました。


生徒ちゃんが試みた '擬似スピードラーニング(?) ' みたいな方法はもしかしたら効果があるかもしれない。


否、効果「も」あるかもしれない。つまり逆効果「も」あるかもしれないし、一見効果と錯覚する事「も」あるかもしれない。'曲に触れる' 回数を多くする意味では、やらないより良いかもしれません。

  沢山回数を触れたらその分発見があるから。

ただこの段階の生徒ちゃんの聴取りの力と、彼女が理想と考える '音楽' にとって必要かどうかは私にはわかりません。

いずれにせよ生徒ちゃんの上手くなりたい気持ちに応えたい。


応えるために変な例を出してゴメンネ。道を照らしたいと思ってるから客観的に聞いてね・・・ と切り出した時は自分でも何処に着地するのが生徒ちゃんのためかわからなかったです。


楽譜
お料理を上手になりたいって思う人が本屋さんでお料理ブックを見て、コレ作れそう! って俄然やる気が出て本を買うとするじゃない?

音楽辞典
帰宅してお料理本の材料を見たら、知らない食材が書いてあるって気づきます。わからないから調べるの。調べて、読んでも、「味」そのものはわからない。食べたことがないから当たり前なのに、謙遜なその人は、どうして自分はわからないのかな? って少し悩んでしまう。

黙読
いい加減でも大丈夫なお人だと作る時に詳しく読んだらいいわって怠けるけれど、この頑張り屋さんは予習する。


音読み
本をよくよく読むとパッと見より随分大変なんだなあって思う。

本を積んだまま放り出す根気のない人も居るかもしれないけど、この人は違う。どうしてもお料理を作ってみたいって気持ちが強いから頑張れる。


アーティキュレーション
小口切りとか銀杏切りとか書いてあるのを色んな食材で練習してみる。本当に熱心ですごいの。だけど上手くいかないからフードプロセッサーを買ったら何とかお料理の形になるかもって買う。

次はフードプロセッサーを使う練習もする。
お料理本から離れてマシーンの取説を読んでいく。

トレモロ
混ぜる練習もする。卵混ぜたりクリーム混ぜたり、色んなことを必死でするけど腕が攣ってしまう。混ぜるのはブレンダーに任せた方が本物に近づけるかもって買ってみる。

ブレンダーの取説は割合簡単で良かったと思う。


強弱
皮剥き器で剥いて、フードプロセッサーでカットした食材を加熱するけど、中火って本に書いてある加減がわからない。

コンロのレバーの真ん中が中火なのか、できうる限りの弱火と強火の火のサイズの真ん中が中火なのか悩んでしまう。先生に聞くことノートに書く。


音質
お料理本にはクタッとしたら火を止めると書いてあるが、指示通り蓋をしたら見えない。だからガラス蓋のお鍋も買わなきゃと思う。お鍋ショッピングを始める。

**


生徒ちゃんケタケタ笑ってから "も~本当ですねっ! " としみじみ言ってくれたから、責めたんじゃないことが伝わって良かった。

お料理をしたい人が行なった多くの努力。それは前述の

  沢山回数を触れたらその分発見がある。

って考えから精一杯エネルギーを使って頑張ったのでしょう。
だけれど頑張ってる間、音楽と向き合えてたでしょうか。

もし

  より深部に触れたらその分発見がある。

と考えられたら違う形にも目を向けられるのじゃあないかしら。

其んなおしゃべりを生徒ちゃんにしたのは、上述の像がエスカレートして「ずっと頑張るのにいつまでも音楽に向き合えない方向を選んでしまう」ギリシャ悲劇的な結末にならないように願ったからでした。

今日はとりあえずこの辺で



弾けなくても大丈夫

January 18, 2019

昨日、生徒ちゃんにお話がちゃんと伝わったかなぁ?


免疫が下がったか風邪でも入り込んだかの変な熱の眠気をおぼえながら、会話を思い返してた。

'弾けなくても大丈夫' '弾けなくていい' は普段のレッスンで割合口にするんです。


これから音楽学校に入るとかじゃなく、違う道を進んだあと大人になって音楽を続ける方は「音楽と近くありたい」と望んでて、私はその気持ちを応援したい思いが強いです。


何故って彼らは音楽に対して非常にピュアだって感じられる場面に多く出会うから。

趣味というにはあまりに熱心な姿は、彼らの方が妙な音楽家よりもずっと音楽を必要としてるんだと感じる。


たまのレッスンでピュアな想いに触れさせてもらうのが楽しくて仕方ない。


だけど彼らは度々小さな間違えをする。
昨日訪ねてきた生徒ちゃんは、曲が巧く通らず止まってしまったのを残念がってた。

何回も、すごく残念がるから
それ・・・できなきゃいけないかなぁ? って言ったのでした。
間違えとは、生徒ちゃんのその日の目標のこと。


'ミス少なく・途中で止まらず・通して演奏できる' を目標の1つにするのは励みになるかもしれないけれど、第一目標にするのは違うかもなと自分は思う。


通せるのは、目標じゃなく結果で良いのじゃあないかな?


'通せた' は分かり易い目安になるけれど、
'通せた=演奏が完成した' じゃあないことは彼らが一番よくわかってるのに、無理矢理に '通す' ことに自分を押し込めると、折角得てた音を出す悦びが遠退くことさえあるんじゃあないかしら...

其んなお話をしました。


個人的な願いは、生徒ちゃんにもっとスラスラ弾けるようになってほしいのじゃなく、もっと感じ・もっと音楽を理解できるようになってほしいと思う。
それこそが最高に楽しいことだから。


スラスラ演奏できなきゃ立派なアマチュアじゃないって考え方だったら、音楽を聞くだけのお人は音楽を楽しめてないことになっちゃうよ? そんな筈ないでしょう? っておしゃべりしました。


弾けようが弾けまいが「理解する」ことは楽器に向かう人もレコードに向かう人もできるでしょう? って。

'弾けなくてもいい' って申し方は変てこだけど正直な想いです。
楽器に向かう場合も 'どれだけ弾けるか' の前に 'どれだけ理解するか' の問を据えてほしいと伝えました。

枝葉のところはまた後日に。
熱が上がってる。困ったな~





January 13, 2019

キッチンがあってリビングがあってその奥にちょろっと 'ももり' が見える。


手前の壁の1等左、オランジーナのカードが判るでしょうか? 木にオランジーナの実が生ってる絵・・・


昨年の終わり頃の月に、兵庫県立美術館を訪れたの。


まるでラ・デファンスのような、洒落てるのか殺風景かわからない感じがする此のエリアへ。

企業が集まる場所の風はラ・デファンス同様妙に乾いてて
私たちが生きる現代が怕いような、希望の扉もあるような複雑な気分にさせる。


ミュージアムロードのオブジェ "PEASE CRACKER" の脇を通り、ブリッジを上がる頃に興奮は始まってた。


レイモン・サヴィニャック展が近づいてきたからです。
プー時代のパリそのものみたいなお人。"パリにかけたポスターの魔法" ってコピーがぴったりの大好きな存在だワ。

大きな商業と手を組み、商業とコマーシャルアート双方を押し上げたチャーミングなパワーも好き。


甘酸っぱい気分にさせられる。胸がギュッとなる・・・


陽気な調子のプー楽曲が何故かほろ苦い後味を残すみたいに。

愛らしく跳ねて、快活に駆けて、ユーモアに満ちて、
ヴィヴィッドな色調が命そのものみたいに生々しくて、
通り過ぎた時代と愛が哀しみを誘うプーみたい。


お屋根のカエルさんに見送られながら
カエルさんと同じ色合いの楽譜があったワって思い出した。


帰っても展覧会の興奮はそのままに


カエルさんとお揃いの色の楽譜をファゴットルームに出し、
カエルさんとお揃いの色のオランジーナカードを壁に貼り、

美術館でたくさん買い込んだ関連品を1つ1つ袋から出す。
袋には高揚が詰まってた。

サヴィニャックの才能を通したパリのエキス。
観たり、読んだり、喉を通ったりして貯蔵されたパリの断片が
集積し、一風を成し、音楽になる幻影と幻影を超えた実感。

**

昨日のお掃除記録。
鯨はリビングルームとその周辺。裏口付近。

どこをお掃除しましょうか? って考えるのは大体排水溝のゴミ捨てと洗いをしてる時。無になってる間に次にすることを纏めてから動く。

始めたのはオーブンの中と外。熱い風が出るオーブン空気孔は意外にお掃除回数が少ない場所だわって思った。。

シンク上のキャビネットの拭き掃除も。
扉がついてるけれど定期的にクイックルスプレーと乾布で拭き取ります。扉の裏・棚の裏もネ。

普段のお掃除に加えてホンのちょっとの特別なお掃除で、おうちを通ってく風が透明になる気がするから好き。




Topページへ
Blogページへ