Le morceauW



サンサーンスとディドロ

November 28, 2011

キルケゴールをこつこつ読んでた。


西洋哲学を読む内で毎回目を留める部分は審美について。
哲学書も美学分野に焦点が当たったものが好きだナ。

若い頃はヘーゲルのフアンで、"美学講義" を面白く読んでた。

キルケゴールは反ヘーゲルの立場だけれど、此れまたフアンのアルベール・カミュが自らの哲学ノートでキルケゴールを引いてたのを見て読みたくなった。

キルケゴールはね、倫理的なものと審美的なものの差異を切出してみせる。キルケゴールの優しさと弱さが時たま論理にブレを生じさせる。

密な語りにも、どこか均衡が取れない不安定さが見える風な気持ちになる。どうしてかしら・・・不思議ね。一等好きなディドロ哲学ととっても違ってる。

ドゥニ・ディドロは均衡など自ら投げ捨てたかのように偏った苛烈な美学論を展開する。何処までが本来あるべき審美で何処からがディドロの趣味的観賞眼だか怪しいときさえあるんだのに、酷く魅力的に感じるの。

一定芸術への偏愛も、其うでないものへの憎悪と痛撃も、何かとてもチャーミング。彼の魅力の源は何かしらって考える。

  *書棚
  *クリームプディングとディドロ
  *絵をみる
  *スペイン料理とディドロ

**


ディドロに思いを巡らせるのは哲学を学びたいからじゃあなくって、サンサーンスの曲を考えてるからなんダ・・・

昨日合わせをしたファゴットソナタOp.168の快活な2楽章。アレグロ・スケルツァンドのストレートなエネルギーがディドロの語り口みたいね、ってふと思った。

遮るものがない直線的な演奏にしたいなぁ・・・

**


変テコな呟きブログ・・・。何故って今日は抜糸の日。怖くって考えがまとまらないのよ。



外国曲コンプレックス

November 24, 2011

エティエンヌ・オズィ (1754年〜1813年) って作曲家をご存知ですか?

私ね、お名前も聞いたコトなかった。


せんに相方さんと神戸楽譜へ寄ったとき見つけたの。目的の譜面を探す内ふと目に留まり、譜面に顔を埋め夢中になって読んでしまった。

  一目惚れでしたヨ!

バロック色が強い古典派って印象の譜面づら。ギャラント風な現れもあって同時に清潔な悲しみが聴こえ、譜面の記し方は簡素。なんとも好みの作曲家だった。

捜索しなきゃならない譜面を打ちやって、相方さんにオズィの事を問うた。ファゴット教本も書いている作曲家と教わった。どうしても演奏したいワ! って思ったのに・・・

"多分イタリア人だったような気がする" って相方さんの一言で譜面を棚へ戻した。ふうん・・・そうなのね、イタリアのお方なのね・・・ 

**


私には【外国コンプレックス】がある。



趣味的に観賞する美術文学でもあまり把握できてないお国に、果たして音楽で触れて良いものやらわからない時がある。知らぬ【外国】って感じる。憧れても手が出ない感じがする。

ソリストさんから与えられる曲が【外国もの】の場合、できる限りお勉強はするものの卑屈になる。私、わかってないんじゃあないかしら? って。何がわからないかを判別できるほども知らないのだって感じる。

其んなのお客様にお聞かせするって赦されない感じがして。

イタリアは絵が好き。ルネサンスもバロックも。けれどその絵画史はあまりにも強大で会得できないスケールに思える。

イタリア文学はさっぱり。ダンテしかすぐには浮かばず、あのボリュームと強靭な構想に打ち負かされて終わった風。

何もかも敵わない【外国】に思えて手が出ない。
桁外れに力強く 桁外れに極められた美は、
遠くから憧れるものカナって気がする時がある。



オズィ、演奏したかったナ・・・
【外国もの】って思えないほど自分の中にスッと入って
まるでホームグラウンドの音楽に思えたのに。

オズィの音楽は一目で理解できて、
楽譜から聴こえる音の有りようが皆見て取れた。

  うぬぼれを申すならね、
    此のようにオズィを理解できるなら、
      私にもイタリアものを理解できるって
        胸張れちゃうんじゃないかしらって
          思えたほどだったのよ。

  しばらくの間クチクチ悩んじゃった。

    お家の中だけで弾いて遊びましょうか?
    自分が楽しむだけなら良いわよネ?

**


お家遊びする作曲家のコト、せめてネット検索くらいでも調べましょってMacを開いた。

  エティエンヌ・オズィ・・・
  思いっ切りフランス人でした☆

フランスクラシックならコンサートに乗せて大丈夫かも?
自信はないけど多分ネ!

ホームグラウンドを感じたのは、ランドックはニーム出身の作曲家が活躍したパリ中央の香りでした。

神戸楽譜へ舞い戻った。

         (間違えから考え込む事になったイタリアには
          結局手が出ないままなのでした)



アヴェマリア

November 14, 2011

リルケ詩集を買った。純白の真四角な本の形も好きになった。
荒涼とした孤独な詩が多い中、1922年の一編が心に留まった。


だが、主よ、おんみに何を捧げよう
聴く耳を この世のものに教えた御身には?

**


書物の問いに音楽が答える。

クリスマスコンサートで演奏するフォーレ "アヴェマリア" をお稽古した。演奏される機会は稀な曲。バリトン (またはメゾ) 用に書かれたアヴェマリア。ファゴット音域に美しくおさまる。

アヴェマリア・・・天使祝詞として御ミサで幾度となく唱え暗唱しているカトリック教徒にとって日常的な歌詞。


めでたし 聖寵充ち満てるマリア、
主 御身とともにまします。
御身は女のうちにて祝せられ、
ご胎内の御子イエズスも
祝せられたもう。
天主の御母聖マリア、
罪人なるわれらのために、
今も臨終のときも祈り給え。
アーメン



多くの歌曲例に漏れずフォーレも旋律に乗せるため母音を挟んだ単語を解体していることはよくあるけれど、天使祝詞は始まりから御仕舞いまでラテン語詞にとても忠実に作られていました。

自由人のようなパーソナリティの一方、宗教曲では慎み深さが顕著になるフォーレの側面。

  "祈り給え、われらのために" と求めをクレシェンドし、
  同じフレーズ内で "罪人なる" をディミヌエンドする。

祈りそのもののような曲。
大切に弾いてゆきたい。

Ave María, grátia plena,
Dóminus tecum,
benedícta tu in muliéribus,
et benedíctus fructus
ventris tui Jesus.
Sancta María, Mater Dei,
ora pro nobis peccatóribus,
nunc et in hora mortis nostræ.
Amen.


明日はブルゴーニュ君ネ・・・♪



ジャズ&ジュトゥヴ再考

November 10, 2011

たまに短いラブレターを書いたりして・・・


1897年のリトグラフ、ピエール・ヴィダル作 "モンマルトルの生活" は、せんに伊丹へ訪問したモンマルトル展で知った作品です。

此方のページで1896年作となってるのは、リトグラフ完成年の翌年が本の発刊年だったのじゃあないカナって推測してます。間違ってましたらば、お詳しい方お教えくださいネ。

**


ヴィダルのイラストと同じ時代のモンマルトルで作曲されたサティ "ジュ・トゥ・ヴ" はとても有名ですね。

アンリ・パコリ詞のオリジナルは、女性歌として男性へ語りかける形で、後に男性歌詞バージョンが作られました。作曲者自身の手によるピアノソロ版は随分昔リサイタルで演奏したナ・・・

9月のコンサートでデュオ演奏したジャズアレンジの捉え方を終演してからも考え続けてる。

**


当時ポーレット・ダルディの歌と共に人気を博したジュトゥヴがカフェコンセールの当時もアレンジで奏された事は充分考えられ、すぐ後にジャズアレンジも当然のように出たことでしょう。

"すぐ後"・・・つまり風俗文化の中心がモンパルナスへ移りつつある時代にジャズアレンジされたとすれば、 アメリカからヨーロッパに入ってきたばかりのジャズ。

この場合ニューオリンズ・ジャズです。
(日本に入ったニューオリンズジャズは、此れより数十年後シカゴ・ジャズ時代を終えてアーリージャズのいわば復刻版ニューオリンズ・ジャズのようですね。)

ジャジーな流れを見た相方さんが1度目の合わせでスイングをかけた時、私は止めたの。

何故ってスイング・ジャズはカンサス・ジャズの後に巻き起こっていったものだから、サティの時代にはあり得ない。だけど私のお願いにはお鼻っから矛盾がありました。

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矛盾とはね、サティ時代のジャズ風を望んでも、使用した現代の編曲者のアレンジは1900年代の再現を意図するものではなかったの。時代考証はされていない、現代感覚でのジャズ要素が 盛り込まれてる。

開かれたコンサートだからとジュ・トゥ・ヴで少し遊んでみる? って試みたらば、最も悩み深く考察を重ねることになっちゃったのね・・・

編曲者に添うとすれば蝶番君の吹き方が正しく、作曲者に添うとすれば違ったものが求められる。私は作曲家を優先したくって後者の選択をお願いした。

まだ自分の中でも結論は出ていない。
先回は現代風からスウィングを差引いた形で 出したのだけど、まだまだ考察と進化の余地ありです。

  ババールは永久に未熟かもしれないけれど
  永久に進化できるよう努めたいナ。

明日はブルゴーニュ君ネ!



昭和モダン歌謡

October 25, 2011

 
9月の衣装のコーデをパチリ。
 


10月31日、ロータリークラブ会員様限定のコンサートが尼崎商工会議所で開かれます。例会、お楽しみお披露目含めて5度目の出演で、何となくお馴染みになってしまいました。

いつもは勿論クラシック演奏だったけれど、今回趣向を変えてシャンソン特集にしてみたのヨ・・・♪

PJハーフタイムやサードステージで弾いた "人生は過ぎ行く" "失われた恋" など、また演奏したいシャンソンも溜まっているから・・・

そしてね、ラストは和製タンゴに致します。

申したことなかったけれど実は昭和歌謡も大好きなのですヨ♪

**


恐らくシャンソンと共通する部分が大きいからでしょうか・・・

フランス語で couplet (クゥプレ) っていうのですが歌のストーリー部分で運ぶところや其のドラマ性が昭和歌謡にも欠かせないものでしたね。

散文的でもなく説明的でもなく、まるで戯曲のような・・・
昭和モダンを折衷のチープさも含めて一つの風俗として好んでいるの。

  選曲には理由があってネ・・・

ロータリークラブ会員様とお話してて知ったの。彼らの時代、ダンスパーティが流行っていたのですって。奥方様を初デートでダンスパーティに誘ったと仰るご夫婦もいらっしゃって・・・

なんだか素敵ネ。
会員様の思い出に添って曲選びをしたくなったんです。

松島詩子さんの "マロニエの木陰" をラストに持って参りますヨ。
勿論オケ演奏全部、ピアノで受け持ちます。
楽しそ〜♪




モーツアルトクラブ写真

October 22, 2011

(撮影者:ノベルティー君)


昨夜はPJにお集り頂きましてどうもありがとうございました。
とっても楽しい夜でした。

PJ写真はまだできていないから、3週ほど前のモーツアルトクラブの写真ですヨ。

古代ギリシャの音律世界に遊んだアポロンの賛歌・・・どうやって合わせているかってお客様に問われたの。

リードをくわえたまま制止して見える相方さん。どのタイミングで息を入れるかは確かに目には見えません。簡単に申せば気配の重なりを感じ取って弾いてるカナ・・・

リードから唇が一瞬放れる感じでブレスを長めに取るでしょうってわかったり、ヴィヴラートの波によって延ばす音のサイクルが伝わったり。

後は音楽上の把握でしょうか。たっぷり目にテヌートしたあとだから次フレーズから前へ進み加減にするのでしょうですとか、

物理的には管にお水が溜まってきた音がした時は ゆったりきかせ過ぎぬよう粘らず行くでしょうとか・・・

丁度ね、お手玉のような感じなんですよ。


2つの玉がくうに上がってて、此うと投げれば此んなタイミングで落ちると無意識に感じながら遊ぶ風。

お手玉の重さや投げる力の加減を計算してるわけじゃない。
ただ上がったり下りたりする玉を見てるだけで 玉を投げる手が算術以上の働きをしてる風・・・

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どうやってピッタリ合うのってご質問されたお方は
益々わからなくなっちゃうカナ。
ホント言うとね、私にもわからないんです。

ただ、此のアンサンブルに愉悦を感じます。



フォーレ "パヴァーヌ"

October 12, 2011

21日PJでは

パヴァーヌを演奏します。


フォーレの中でも1等有名な楽曲の1つですね。

オケ版、合唱つき、ヴォーカル&ピアノなど様々な形の譜がありますね。

1886年〜87年、最初に管弦楽バージョンを作曲しています。
1888年、完成翌年の秋が初演。

1887年、オケ版の完成と前後して合唱パート入りを作り
1889年、合唱付きオケ版初演。

此ういった流れを見てみるのは、歌詞が楽曲に影響を及ぼすかどうか知るためで・・・。詩がはじめにある歌曲などは、詩を読みながら音を乗せた胸の内を知りたいワっていつも思う。

パヴァーヌの場合は明らかに曲が先ですから、歌詞からの影響はないって判りますネ。ですから器楽演奏上は歌詞に注視しないながらもパヴァーヌに歌詞をつけた詩人さんったら面白いのヨ。

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ロベール・ド・モンテスキュー・フザンサック伯爵 (仏1855年〜1921年) の筆によります。

あらゆるベルエポック文化の使い手だったのですって。大変な趣味人だったそうで詩の刊行もその1つのようでした。

詩集を探してみようとwikiを引いていたらば ホラ・・・オルセー所蔵の絵が・・・♪

時代をよくよく現したお姿ですよネ!
ブログにも登場しているベルナール・ブーテ・ド・モンヴェル氏が描かれる風な出立ちですネ。

多分に懐古趣味的要素があるフォーレが ブルボン朝詩歌でお名を馳せた伯爵の歌詞を用いた感じ、なんとなく理解できる気がする・・・

ギャラント・スタイルと呼ばれる通り歌詞イメージも月の光と近い風に感じます。

惑いの罠のような魅惑的なモノフォニーが孤独感を誘うふうで・・・

ギャラント・スタイルの輪郭を探して、20世紀文学解説を読んでみてる。



19世紀の恋情

October 01, 2011

どうカナ・・・?

秋用マフラー編みました。


細くてうんと軽いのヨ。モクモクした、毛のような柔らかい糸を編んでゆくとフェイクファーにも見えて楽しいの。

県美で "トスカーナのセレナード" を演奏するために、フォト・エッセイスト片桐敬子様がヴィーニャマッジオの風景写真をお貸し下さったのです。コンサート中スクリーンに映して頂きました。

御礼に手編みしてみたマフラーは敬子様ご希望の茶金色。
蝶番君と一緒にメッセージを書いたのはsuzu様のお菓子カード♪

  コンサート前後は此んな作業で頭を休めて・・・

**


トスカーナのセレナードは近々また演奏したい曲。とても思い入れが深いのです。今一等好きで一等弾きたい曲かもしれない。

曲にも詩にも心を重ね、自己投影を止められず・・・

  *"トスカーナのセレナード" 落合訳

一歩誤ればカンツォーネ風になるメロディーは、テンポ感の抑制によって諦めと焦燥が際立つ気がした。

感情としての焦燥感とは違う。タイムリミットがあるから焦慮する伝承詩の主人公。歌の中のタイムリミットとは自分をいつまで保てるかの危機意識が生み出すものと感じて・・・

  関連記事*トスカーナの目覚めと眠り
      *トスカーナの気配
      *フォーレ "トスカーナのセレナード"
      *トスカーナに憑かれて
      *フランス気質と音さがし


私自身が切ない恋に力及ばない我が身を憂い、
その中で作っていった演奏でした。



演奏上の此んな風な組み立て方は後期ロマン主義だからこそ可能と思えた。19世紀音楽としてのロマン派が個人の嘆きというものに触れてゆく中で、【嘆き】は【我れの嘆き】に置き換えられる。異なる条件下の感情を【我れのもの】として重ねることが可能なのですね。

此の部分が18世紀音楽と大きな差があるところかと思います。
ディドロの時代の音楽に、

  *スペイン料理とディドロ
  *絵をみる

【嘆き】が現代の【我れの嘆き】に差替えが利かないのだって考えを音楽評論の方と合意し合ってた。

貴族社会としての共同体と個人のあり方が19世紀とは違う形を持つ背景と、【嘆き】を自己実現としては用いない作曲家の特性のお話があったのでした。

続きはまた今度ネ!



ボザ "ソロ、シシリエンヌとロンド"

September 14, 2011

ファゴット合わせの日の朝です。


"赤と黒" 再読は後半に進んだ。

メルスリーヒゲ様に頂いたフランスの切抜き栞は、ジュリアン・ソレルが崇拝したナポレオンの時代を彷彿とさせて気持ちが弾んだ。

個人的な感覚だけれど、スタンダールは展開で読むより心理書に据えた読み方が面白い風に思う。スタンダール自身が持っていたブレと矛盾の性質をどのように自己評価したがために、ジュリアン・ソレルを作り出したんでしょうって思い浮かべた。

美貌で痩身の見栄え良く 手管が巧妙な青年は、例えばバルザックなどが書く場合は心理投影とは違っている気がする。

作家さん自身が表れる様を見てゆく読み方を楽しく思えた。

**


お初に触れるファゴットオリジナル曲、ボザの "ソロ、シシリエンヌとロンド" も似た風な面白さがある。

ボザに多い例の如く 恐らくこの曲もコンセルヴァトワール試験のために書かれたって聞いた気がするナ・・・

試験用だった曲・・・短い時間に様々な技巧と歌の種類が盛り込まれるのが特徴だけど、それだけじゃない作曲家のエッセンスが楽しい。

以前は私 ボザって作曲家をよく知らなくて、時々イベールのような音がするのネって思ったの。あとになってボザはイベールに師事したのを知った。

1つの和音、1つのフレーズに作曲者のプロフィールが見え隠れするって楽しいわネ。

  豊かな曲の表情。
  しっとりした部分でも根本に朗らかさを感じさせる雰囲気。
  おおらかな音の使い方。

明るい音遣いのピアノパートを見ながら、弾きたい曲想の枠組みができてきた。此の曲はファゴットの音色に添うよりも 独立して女性的で小粋に煌びやかに弾いてみたいかも・・・

そのほうがファゴットの音幅の豊かさが引き立つのじゃあないかしらん・・・?

今日の合わせでお試ししてみましょ♪



シャンソン♪

September 07, 2011

** 明日は午前10時頃に558KHzラジオ関西さんを
 スイッチONしてみて下さいネ・・・♪


今年5月にサックス伴奏をしたサロンですヨ。

エスタシオン・デ・神戸さんの上階で、グロトリアンのピアノが入っているお部屋ですヨ。此処でサックスと演奏したのはピアフの "アコーディオン弾き" など数曲だった。

昨日の合わせでも幾つかシャンソンを手合わせした。

**

ロマン派はノーブルな演奏が大好き。でもちょこっと俗な要素ある曲では下品な演奏を好む傾向があるみたい・・・
特にピアソラやシャンソンは・・・

  *ミスタンゲットのパリ

よく組み立てられてるのに俗っぽくて
即物的なことが悲しく美しくて
人の命を愛おしみたい気持ちになって

胸を打つ生命の営み・・・

キュンキュンしちゃうんですヨ。

   うんと通俗的に泥臭く 野卑な感じで弾きたくなる。
   高尚な精神なんかじゃない、ひたすら愛を求める気持ちを
   陳腐で低級な感じに歌いたくなる。

**

練習録音を聴いたの・・・
共演奏者様にいっぱい要求してる・・・

しじみちゃんと弾いてた時、私こんなコト言ってます。

《5拍子立ち止まらないで突っ込んで!
  もっと重なってきて。
    ピアノの音、消しちゃうくらい来て。

       音が引っくり返ってもいいから
         ンビ〜って吹いて。ンビィィ〜って。 》


録音から言葉を拾ってみると酷いったら・・・
蝶番とのシャンソン練習録音も・・・

《長く延ばして。下品に。もっと下品に!

        いやらしく
           卑しく
              粗野に
                 野蛮に

            全開で喚いて。
          突いた音のままの高テンションで!
        
      綺麗に歌い仕舞いしないで。
    アクセントもっと粗暴でいい。
  納めないで16分音符に食いついてきて! 》


何だか煽り屋さんみたい・・・

ショパンならば間違っても此れようにはならないけれど、一定の作曲家の一定の曲目は偏愛のあまり 合わせもテンション高くなって・・・

まだまだ暑い9月なのです。

**

今朝はガラリと雰囲気が変わってロマン派のレッスンで1日を始めます。色んな曲の色んな表情を楽しみたいナ・・・



フォーレ "エレジー"

August 26, 2011

なんて悲しい曲なのかしら・・・

初めて聴いたとき衝撃でした。


鐘を思わせる音運びで沈痛な表情から えぐるような激情へと昇る大きな波。

悲痛な語りのあと昇華に至るのも、フォーレの大きな特徴として時々見られますネ。

  *"罪の償い" 落合訳
  *身代金
  *罪と長調

1880年作曲のエレジーは・・・

**


読み終えたばかりの歴史書 "ブルジョワの世紀" に時代が重なる器楽曲。

  *何故本を読む?

ユーゴー、ミュッセ、シャトーブリアン、スタンダールらが作り上げたフランスロマン主義からの発展が背景を大きく占める時代。

前時代の音楽的な革命と政治的な新しい思想が漂う中に生を受けたフォーレが、それらロマン主義の影響をくっきりと備えていたと感じさせる曲です。

続きはまた今度ネ!



フランス音楽(5)さかしま

July 15, 2011

再演予定のプーランクの

"モンパルナス" を巡って


ラ・クーポールとモンパルナスの歴史を読んでた。

  *モンパルナス(1)良き時代
  *         (2)プーランク

キキとマンレイ、ユキとフジタ、ボーヴォワールとサルトル、コクトー、アラゴン、ダリ・・・彼らがストーリーを織り成す舞台は華やかだった。

当時のラ・クーポールでは、一週間で360個の卵、15キログラムのバター、40キログラムのカカオを消費していく。活気に満ちたモンパルナスの最盛期。

詩と絵画と音楽とバレエが次から次へと生まれ生きていった良き時代のモンパルナスで、アポリネールは自己の存在を危うく感じているような 脆く被虐的な詩 "モンパルナス" を書いたのね。

**


フランス音楽の演奏に際して、アポリネールが描く満たされない者の悲しみはしばしばヒントになっている。

哀しい風景の内に自分を重ねて悲しみを覚えるのと異なっているのね。
はしゃいだ場から取り残された孤独感を描くのね。

フォーレ&ヴェルレーヌの "月の光" もそうでした・・・

*"月の光" 落合訳
関連記事 *月の光とリュート
       *月の光のメヌエット
       *月の光と諦念
       *月の光に溶けて消える
       *月の光と母性
       *フォーレ "月の光"

心情を重ねるものが見える浪漫風な詩情と、楽しげな場面に置かれた単独者の虚無。どちらが孤独かはわからない・・・孤独の種類が違っているのでしょう。

外周と心のa Bours、さかしまの詩と音楽の魅力です。

*フランス音楽(1)霧の具象
*        (2)感情と心象
*        (3)失意
*        (4)エクリチュール



月の光と母性

June 22, 2011

折れても生きようとした健気な姿の百合を見て、


私は、百合が仲間の花びらで守られてるってブログに書いた。

  *折れた百合

病床の友人を守りたい思いが知らず知らず表れてた。
友人は写真を見て・・・

  *祈りの花

百合は上を向いて仲間を見上げてる、って言った。
同じ情景を挟む2つの立場。それぞれの思いを重ねて見るのね。

**

明後日ライブ演奏するフォーレ "月の光" に拘ってた。
《仮装の陰》って描写が齎す人間の心寂しさをメインに考えた。

ワトー絵画の男性の心情に近いものを追いたい気持ちになった。私が女だからかしら? フォーレが着想した絵画にもヴェルレーヌ詩にも、感情遺棄のような空気が感じられた。

前奏3小節目に書き込んでた。"sans expression (表情なしに) "。
其ういった歌い回しが良いように思えた。仮装に覆われ見えなくなったイメージを持った。

**

蝶番君は、冒頭はスッと流れて3小節目に表情が欲しいって言った。
3小節目にくる音の優しさを、抑えても漏れ出る母性のようにと。

男性ならではの視点ね。程なく納得。sans expression の文字を消し、冒頭に沿って全体に微細なイメージ変更。

月の光に温度を足してみようと思う。


*"月の光" 落合訳
関連記事 *月の光とリュート
       *月の光のメヌエット
       *月の光と諦念
       *月の光に溶けて消える
       *フォーレ "月の光"



プーランク「ロマンツァ」

May 20, 2011

朝5時過ぎ

練習録音をチェックした。


もう少し休まなきゃネって知っているのに、目覚めると早々と起き上がってしまう。楽曲の新しい表情が楽しみで、早くおさらいしたくて早く聴きたくて。

**

特に練習録音チェックはとてもとても楽しい作業なんです。

ソリストさんのちょっとした息遣いやフレーズ感覚に応じて譜面に書き込んでゆく。ピアノと一緒になった和音を縦に横にと聴いて、ソリストさんの音楽が最も美しく聞こえるハモり方を探る。

プーランク "ロマンツァ"。
しじみちゃんとクラリネットソナタ全楽章として演奏した曲でした。

しじみちゃんはね、クラリネットの特質も含めて張り詰めた美しさを醸してくれました。高音のピーンと張った緊張感が随所に。

だから私は、しじみちゃんの感覚をなぞって高音へゆくほど硬めの音質で演奏した。ピアニシモはピアノで、ピアノはメッツォピアノで、少し多めに響かせて。対比として47小節目からを柔らかに沈ませた。

しじみちゃんの性格もあって、きっちりカウントされた48分音符をピアノと掛け合うのが もぅ、もぅ、楽しくて。変態さんの私は、此の曲ばっかりずっと弾いてたい・・・なんて呟いてた。

しじみちゃんの女性的な線の細さはプーランクの傷つきやすい心を歌うようで、とっても気に入ってたんです。

**

楽器と奏者が変われば別曲に・・・。しじみちゃんとのアンサンブルのために書き込んだチェックは此の度すべて無効となりました。

蝶番君の演奏で現れる世界観はまるで違ってて・・・。
堕ちてゆくロマンツァ。

しじみちゃんの演奏が 脆い心でも留まろうとする足掻きだとすれば、蝶番君の演奏では 足掻かず傷とともにどこまでも沈み堕ちてゆく悲哀が現れます。

困憊し崩潰した者の色香は、此れもまたプーランクの大きな魅力ですね。私は譜面上を消しゴムのカスだらけにしながら1から作り直した。

低音で幅広く支えながら2つ連ねの8分音符は音の立ち上がりを殺し、ピアノで先導せず 方向性も表さない風に作り変えた。
打ちのめされた重い心を添い包むピアノにしましょう。

どちらのロマンツァも好き! 伴奏者はお得ネ。1曲で2度オイシイの・・・♪

6月24日PJでお披露目です・・・♪



フランス音楽(4)エクリチュール

May 06, 2011

ページが外れ、ばらけた楽譜。

ドビュッシー前奏曲2集。


ねぇ・・・楽譜の読み方をご存知ないお方にも、お話世界が見えそうに思われませんか? 前奏曲内 "水の精" のページです。

ドビュッシーが採用した3段記譜は、此れ自体が三次元立体に見える。1903年から例を見せますが、前奏曲2集には12曲とも3段譜を取り入れているの。

音の層を次元で書き分けた書式は、紙の上の出来事じゃあなくって3Dに見えてくる。多層構造の音価が立ち上がる。上から下へ、下から上へと流れ湧き出て・・・沈む。

此んな譜を絵を観るように眺めて、美しいなぁって思うの。

**

仏文学のエクリチュールの変遷を文学評論のロラン・バルト氏が仕分けてる。古典文学では書くことを伝達の手段に見なされたため厳密なエクリチュールは存在していない、と。

単一のエクリチュールが多様化せざるを得なかったのは歴史に基づき、ブルジョア・イデオロギーの統一が喪失する社会の動きの中で エクリチュールの問いが持ち上がったとのバルト氏の解析を、仏文学文芸評論の渡辺一民様が解説されているの。

音楽のエクリチュールの変遷の場合、文学と違って社会変動によるものとは言えないでしょうネ。もっともっと個人的な、作曲家個人の・・・ 懐疑と再構築の試み?

文学に於いてエクリチュールが単体だった頃、社会がそこに普遍性を見、エクリチュールの多様化は読者の意識の多様化の結果というのがバルトの分け方のように感じたのですが、もし読み違えていないなら 音楽の場合は作曲家ご本人が単一エクリチュールの普遍性を疑ったのが出所では・・・? ナンテ思うのです。

ドビュッシーの試みは、譜面に立体画を描く結果になった。
此の記譜書式は ドビュッシーの音の絵だと思う。


*フランス音楽(1)霧の具象
*        (2)感情と心象
*        (3)失意



フランス音楽(3)失意

May 02, 2011

明日はパリの風 第15回リサイタルです。

(撮影者:leonarhodo様)


春にリニューアルされたハーブ園に初めて参るの。六甲の緑の中、
皆様と音楽をわかちあう良い時間になりますように・・・

午後1時半開場、午後2時開演です。

  *サンラザールより 望郷の空

**

今朝もフランス音楽の続きのおしゃべりネ!

"トスカーナのセレナード" を愛する理由はフォーレのやさしさ。
フォーレのヒューマニズムを感じるのよ。

  *"トスカーナのセレナード" 落合訳
    *トスカーナの目覚めと眠り
      *トスカーナの気配
    *フォーレ "トスカーナのセレナード"
  *トスカーナに憑かれて

鮮やかなリズムでの短調の訴えは心に迫り、その分最初はラストを不可思議に感じた。切々としたメロディーの最終が妙に軽く流れ消えるようで・・・

何故此んなアンバランスな終わり方をするのでしょう・・・って。
美しい女性へ想いを伝えようと窓下で歌い上げる恋歌だのに?

ラストだけが まるで恋歌からかけ離れたように・・・

**

フランス的エンディングのお話を書いたのを思い出した。

  *尻切れ草履
  *尻切れ草履の後に
  *エンディング

其れから新たにエンディングの心情的意味を考えた。

恋に敗れた自己を憐れみ縋るでもなく、
また失意を長々と訴えるでもない。

恋を失ったところから始まって、自己への哀憫と苦悩を語る音楽とは根本的に異なっているかもしれない。

激しい恋情ののちの失意は、
失意を抱く心を殺してしまおうと決めた瞬間に安堵に変わる。

求める事を辞められないなら、求める心ごと殺してしまおうと。 
此の精神的自殺は 歌の主人公にとって唯一の安息になる。

死を決めた部分にそっと長調を沿わせたフォーレ。
独善的解決の死の是非はなく、恋を忘れ失意を忘れる安息を彩った。

ごく短いパッセージで。
ごく軽く ふわりと消える。

いつまでも心ひく憐れ。


*フランス音楽(1)霧の具象
*        (2)感情と心象



フランス音楽(2)感情と心象

May 01, 2011

お玄関アプローチのクリスマスローズ。


花色が薄くなった。蕾の時は黒に近かった。開きかければ黒紫。めしべを落とし始めた今は明るい色に。

此んな変化をドビュッシーなら どう描くだろう。
昨日の続きのお話ネ。

**

感情に至る前の心象。

悲しみを自覚する以前の疼き。
美しさへの感動を噛み締める前の心の振動。
感情という展開が起きる前、トクンッと心臓が1つ鳴る。


黒い蕾は花色の観念の外だった。
肉感的な黒は、心に振動を伝えてきた。
花の肉の黒は美しい? 醜い? まだ感情による感知はできない。
それでもトクンッと心臓が鳴る。

鳴った理由を後に観念が説明できるだろう。
説明は、一瞬の振動ほどピュアなものではないかもしれない。

黒紫に咲きかけた花びらは、
有機的な色合いに反してカサリと乾いた蝕感だった。

開ききって茎を俯かせる。
黄色い繊毛は、心得たように準備された場所へ着地する。

花は一個の生命体なのだと感じる。

花は訴えかけない。
ただ見せてくれる。

見ることで私たちの臓器が振動する。

花の詩法に。

**

私にとってフランス音楽は美しい詩法。
感情を添い乗せる音楽に対し、感覚の麓へ降りる音楽。

*フランス音楽(1)霧の具象



フランス音楽(1)霧の具象

April 30, 2011

フランス音楽シリーズを

持たせて頂いてる私が


此れまでフランス音楽が苦手だったと仰る方とお知り合いになった。
苦手な作曲家のものでもお聞きくださる。とても有難いと思う。

苦手をいつか好きになって下さればもちろん嬉しいけれど、音楽人の務めは必ずしも其処じゃない。自分がやりたい音楽へ心を向けて頂くだけがすべき事には当たらないと思う。

苦手を好きに差し向けるより、苦手も好きも有りながら各々の味わいを深めるほうが楽しい。それによって苦手がより苦手になっても構わない。より苦手になるということも、より知るということに他ならない。

**

苦手と感じる場合、例えばドビュッシー。彼の曲の何が受け入れ難い可能性があるかしらって想像してみた。

      @楽曲を抽象画のように捉える場合。
      A酷くとりとめないものに映るかもしれない。
      B曲の流れに心を添わせ難いということ。

抽象画の風に感じるのは、音階的なものが大きな要因かもしれない。
ドレミの順に並ぶ筈が、律されない乱れとして聞くと抽象表現に感じられる可能性。

仮定に過ぎないけれども、おおいに有り得るのじゃあないかしら・・・
しかし、

      @a ドビュッシーは抽象だろうか。また、
      Aa 律されているとは、どんな状態を指すだろうか。

結論から申せば、ドビュッシーは抽象的な部分が極めて低い作曲家の代表だって思うの。

空を空色に塗る画家がもし居るとして、一方でドビュッシーは点描のように綿密に 白、紫、赤、青、黄、黄土、目を凝らし目に入れるべきあらゆる色を重ね、反射の細部も描く。

@b 空に使われない色と観念づけられた色が塗られている。
だから一瞬、空想的な色遣いかと思う。

      @c けれどもよく見れば空は確かに観念の外の色を持つ。

Ab 反射は視界を混乱させる。とりとめない光の渦に見える。
空を見ようとしているのに光のせいで巨視の世界は乱れる。

      Ac けれども反射には何より緻密な法則がある。

光の点描。点の1つ1つを彼は音符の形で記してゆく。
確固とした反射の法則こそ、ドビュッシーの "律された世界" と言えるように思う。

**

5月3日に演奏する "霧" について お師匠様のお書き物がある。

《三全音度で虹の光彩を添える微滴の燦爛 (嬰ト、嬰ニ) 》

此のようなくだりが大好きなの。
完全なる具象。其うして精密な具象が詩へと変わる・・・

Ba 可視の風光に心を重ねるように、音に聴く風景に心象を重ねる。

感情のもっと奥、喜怒哀楽になる前のシンと澄んだ心の像を重ねることができる。

今日の最後にもう一文、お師匠様の引用です。

漠たるものを捕らえ、
灰色の階梯を微分し、
輪郭を暈し、
滅して、
夢見る

滅して、夢見る
ドビュッシーの霧の世界

**

Bについての続きはまた明日ネ・・・

5月3日午後1時半開場、午後2時開演、
シリーズ・リサイタル "パリの風" 第15回の開催です。
布引ハーブ園森のホールへどうぞお出ましくださいませ。

  *サンラザールより 望郷の空

開演間際はロープウエイが混み合いますため
どうぞお早めに山頂へお越しくださいネ。



フランス気質と音さがし

April 19, 2011

数小節、ワンフレーズに半日以上をかけること・・・


数週間1曲の1部分を考え続けること・・・
それって癖のようなもの。

熱心さとも違う・・・ただの気質の部分。

*トスカーナに憑かれて

関連記事*"トスカーナのセレナード" 落合訳
       *トスカーナの目覚めと眠り
       *トスカーナの気配
       *フォーレ "トスカーナのセレナード"

点描に捉われ点描を重ねる気質のコト・・・ 所謂フランス気質って括っても間違いじゃないかもしれない。

プルースト然り、ユゴー然りの気質を一般市民も多く持っていて・・・
2001年に映画アメリの登場人物たちが自国で共感をもって広く受け入れられたのも、其の部分の表れの1つかもしれないナ。

(20年同じルノワールを模写する画家、電車の車掌さんを引退して尚お庭の葉っぱを切符代わりにパンチを当て続ける壮年男性e.t.c. )

**

シュレアリスム文学のルイ・アラゴン著 "パリの神話" を読んだ。

  *女の子はファンシー好き(6)ルイ・アラゴン

   初め、可笑しなほどのブロンドへの拘りを面白く思って・・・

《黄玉(トパーズ)の髪や、ヒステリー性の髪も知った。ヒステリーのような金髪(ブロンド)、大空のような金髪、疲労のような金髪、接吻のような金髪。ぼくは塗りつけよう、金髪の絵の具をぶちまけたパレットの上に、自動車の優美さを、"いわおうぎ" の香りを、朝の沈黙を、とまどった期待を、さわやかな愛撫のいたずらを。

雨の音、鏡の歌などは、ああ、どんなにブロンドであることか! ふくろうの啼声をたてる手袋の香水(かおり)、"えにしだ" の花の焔のように燃える暗殺者の心臓の鼓動、シャンソンのようにやさしい咬みあと。なんと限りないブロンドの海だ、眼瞼(まぶた)のうねりだ。

ブロンドの屋根、ブロンドの風、ブロンドのテーブルと棕櫚(しゅろ)。ときとしてまる一日中ブロンドのこともある。'ブロンド' の百貨店があり、欲望のための歩廊(ギャルリー)があり、オレンジエードの金色の火薬庫がある。

どこもかしこも、ブロンド。
それというのもぼくがこの脂松(やにまつ)のような感覚に、この色そのものでないというブロンドの概念にわが身をまかせきっているからだ。》


   次に続く文にアラゴンの気質の意味を見る。

《それは、愛のしらべと一体になった一種の色の精神(こころ)のことだ。
白から黄色を経て赤へと移っても、ブロンドはその神秘を明かしはしない。

ブロンドは快楽のつぶやきに似ている。
海賊のようにくちびるを盗むのに似ている。
澄みきった水面の震えに似ている。
ブロンドを定義することはできない。》
                        (カッコ内佐藤朔様訳)

定義できないものを探し当てるために書き尽くす。決して書切る事はできないと知りながら書き尽くす。

ご病気のように言い重ねるアラゴンの、何事かを探そう探し当てようとする感覚に共感した。滑稽に映ると自覚しながら、滑稽の先を探す。

**

昨日の合わせで相変わらずフォーレのトスカーナを持ち出した。
冒頭2小節を取上げて聴いてもらった。

"私はバカだから2小節だけで計9時間以上おさらいして やっと形ができた。あと12,3時間くらいやれば ほぼ身体の隅々まで入ると思う。"

そう言って2小節を弾いた。後期ロマネスクの雰囲気を ごく僅かな音で形づくることに躍起になった月だった。多分ほぼ仕上がりの格好ができていたと思う。2人ともが気に入った形になったと思う。

あとは、リサイタルが終わったらば身体に染み込むまで まだ2小節を続けるのでしょう。そしてね、その時間が取れる5月を心待ちにしているのです・・・

**

明後日4月21日はピアジュリ・ソロライブです。
お誘い合わせの上、どうぞお出ましくださいネ・・・♪



フォーレ「トスカーナのセレナード」

April 06, 2011

1曲を考え考え、

様々に話し合う。


フォーレ歌曲 "トスカーナのセレナード" が、此の日の合わせの主軸でした。賛同し合ったり意見交換したり、1つ1つ細やかにお付き合い下さる共演者。

  *"トスカーナのセレナード" 落合訳
  *トスカーナの目覚めと眠り
  *トスカーナの気配

詩中の女性が住まうアパルトマンを、其処に見るかのように話した。

トスカーナ州フィレンツェのドゥオーモの円屋根やベッキオのような土色のアパルトマンを連想してた。曲中、土色肌をした建物が浮かんでた。

元のイタリア歌詞は古い伝承歌・・・だから中世の香りを残す建築で・・・
キーになる "窓" はロマネスク風の格好をして・・・

イタリア国内トスカーナの位置、情景、それからフォト・エッセイスト片桐敬子様が訳詩用カードと一緒にわざわざお送りくださったトスカーナのお写真を見ながら 尽きない話し合いを交わす。

**

8分の9拍子のうち、1,3,6,7,9を打つピアノ前奏。

/ / 3  / / 6  / / 9
1 / /  / / /   7 / /

2,4,5,8の空白のうち、2,4の空間に無音の音楽を響かせることを蝶番君が要望した。私が見落とした点でした。そして1の打音に重い響きをと・・・

私は1より7の重心じゃないかしらって提案。1小節のうち重心を変化させるだけで曲調が変わる。2つのパターンを験す。第2テーマのアルペジオの拡大形と考えれば、3拍目つまり7音目に重心があるべきじゃないかしらと話す。

幾度も試みる。1文の得にもならない作業を無制限に繰り返す。

お初に譜面を手にした時、カンツォーネ風に歌い込みたくなったメロディーは、今変わってきてる。イタリアの風を感じながら、しかしまどろみで開始する冒頭は囁く弱音に作り直された。

**

私は同じ旋律を歌い上げる2箇所に注目した。
第2パラグラフ《目覚めんや》の願いと、第5パラグラフ《歌声尽きし》の悲痛が同じ旋律を用いた叫びであることの意味と奏法を話した。

蝶番君は、詩の上の最終パラグラフ直前(上記リンク)、3小節間のピアノ間奏の切なさに着目した。

我が願い 排斥の憂き目を知らば 
君忘れんがため まどろみに乞う

此の直前ピアノソロ分の時間を空けてから終局に迫る・・・ 
《まどろみに乞う》の表現が死に近いものだって再確認する。曲が完全に詩のニュアンスに添って進む美しさを讃える。

**

終わりない作業に気持ちの疲労はない。
休憩には同じフォーレ歌曲 "森の鳩" の舞台を共に見に行ってみた。

フォーレ祭りは続くのです。



ショパン「ワルツ」No.5

March 21, 2011

(画像はリサイタルちらし裏面デス)


激しい雨音に目を覚まし早い更新です。

カモノハシちゃんにソロプログラムを聞いてもらった。
お友達の前でする通練習は弱い部分が見えて良いお勉強になる。
終わってちょこっとだけおしゃべりした。

"デュオ、すごい楽しそうネ。"
-- 楽しいヨ。ソロにも影響受けてるのよ。

とっても悩んでたショパン、蝶番君が解決してくれたの。


**


ワルツNo.5の210〜212小節目。g-f-g-f-g-b-as・・・ 此処をどうしようかしらって。

下世話を申すとね・・・まるで暗譜がわかんなくなって止まりそうになった演奏のように聞こえそうなんだもの。

ハーモニーを忘れて単音ユニゾンで弾いちゃった風だったり、前小節で止まりそうになって取り急ぎの音を鳴らしてる風だったり・・・ 此んな形ショパンに珍しくって引いてくる他例もない。

考を絞った末、g-f-g-f の必然性を出すために1つ前209小節目高音g-f を強めにマークして210へ繋げようとした。ただし、それですとユニゾンの意味はなくなりますね・・・

ユニゾン自体も大問題だった。単調な動きをsostenutoで奏すれば、2分音符分で音が減少するピアノの特性からフレーズ感が滞る。意図が何処にあるか迷った。


**


何百回とあらゆる弾き方を試し繰り返した。違和感が拭えず3小節に2ヶ月悩み お師匠様方に問い合わせてご意見を頂きながらも、どれも納得いくに至らなかった。

フォーレの最中に申し訳ないけれど助けて〜って蝶番君に相談した。
うん確かに珍しい形ですね・・・って一瞬考えて。

ほんの一瞬後。

g-f-g-f を全く別個のカウントにしませんかって。209小節目g-f はマークしないで完全に止めて浮かせたら・・・って次小節の新たな挿入の形を口ずさんでくれた。身振りを入れて歌ってくれたとき、まったく新しいフレージングが見えちゃったのヨ。

ドビュッシー "木馬" ラストには、メリーゴーランドが終わりそうになった後に もう1周だけ回るつくりがあったワ・・・

  *木馬の序--廻る歌

あのちょっぴり不思議な一瞬を経てから拓ける地帯に立つようなドビュッシー歌曲と近い感覚を持つと良いのね?

深刻な悩みだったg-f-g-f は、前メロディーを保持しながらも新しい展開を期待させてコーダへ向かう鍵の存在になった。そしてね、一等お気に入りの箇所になった。

1言1身振りで楽曲がガラリと変わるインスピレーションを下さる音楽仲間に感謝と尊敬を込めて。


**


ショパンワルツのお披露目は、4月21日7時半〜ピアジュリアンと、
5月3日2時〜森のホールにて。どうぞお越しくださいネ。



フォーレ「月の光」

January 19, 2011

美しい詩。

美しい曲。


《月の光》より
                  ポール・ヴェルレーヌ

枝の小鳥を夢へといざない
大理石(なめいし)の水盤に姿よく立ちあがる
噴水(ふきあげ)の滴の露を歓びの極みに悶え泣きさせる
かなしくも身にしみる月の光に溶け、消える
                          (堀口大學様訳)


あまり綺麗に立ち枯れていたから鋏を入れられなかった秋色紫陽花。新たな花芽のためにしぶしぶ伐採した。紫陽花とヴェルレーヌは1年中側にあってほしい大好きなもの。

古い翻訳文庫はページが外れて酷いことになっちゃった。もはや本じゃないワ。紙の断片・・・上手に持たないと紙が床に零れてく。

今朝もばらけて落ちて拾った。ページ番号順に揃えながら溜息ついた。何度この作業をしてるかしら・・・新しいの買い直さなきゃ限界ね。


**


すっかりフォーレづいちゃった。"月の光" はヴェルレーヌ詩を用いた処女作でした。其の成功の後フォーレはたくさんヴェルレーヌ作品を取り入れることになったのですね。

儚げな美しさと月の光のマジックのような魅力。4+2の拍子に聞こえるけれど譜面上は3拍子メヌエット。

目で見るリズムと聞こえるリズムが違っている風な不思議さは1月8日のプログラム、ドリーの子守唄にもありました。2台の楽器のデカラージュが淡く不安定感を誘う造り・・・ フォーレお得意の表現ですよネ。

"月の光" は特別に好きな1曲。しなやかな夜の世界に吸い込まれそうになるのです。



ドビュッシー小組曲「メヌエット」

January 13, 2011

なんて素敵な曲でしょう・・・

ドビュッシーのメヌエット・・・


"小舟にて" と同じく小組曲収録作品。

"小舟にて" はヴェルレーヌの艶なる宴からの着想でしたが、"メヌエット" はテオドール・ド・バンヴィルの艶なる宴で書いた歌曲の転用なのネ。

    (2つの "艶なる宴"
       ヴェルレーヌは 複数形 Fetes galantes
       バンヴィル作は 単数形 Fete galante)

演奏準備期間にドビュッシー書簡集を読んだ。お手紙って楽しいの。交友関係や先の作曲アイディアに結び付く発言が見つかってく。

1885年6月4日、ウジェーヌ・ヴァニエ氏へ (写真はヴァニエ夫人) お便り書いてた。熱を出してお返事が遅くなったのですって。
お手紙の最初でちょこっと言い訳しているのヨ。

それからフランス高踏派詩人テオドール・ド・バンヴィルに触れている。

バンヴィル歌曲と其の転用のメヌエット作曲の半ばに当たる年。用いる詩人をプライベートのお手紙で話題にしたドビュッシー。

**


メヌエットに仄かな夜気を感じた。ほの暗さと香高さに包まれた開始。
バンヴィルの詩を見れば・・・《今宵》《香り漂う》と歌詞にあって。

楽曲を先に知って浮かべた景色が、後に見た詩に書かれてる。
此んな時ドビュッシーの音描写の感覚に震撼する。

フランス古典主義を礼賛した風に典雅な形式。歌曲下敷きの詩も含め 王朝の幻影が漂うのネ。第二帝政フランスが衰退の影を引くなか、華やかなりしルイ王朝懐古の情。

其の叙情はあくまで幻想世界。ドビュッシーならではの嵌りこまない流儀をもって・・・。端麗な客観性と遊び、そして大切な香気。作曲家のレトリックの妙にどきどきする。

雅と抑制・・・ううん、此れは対義語じゃない。
雅とは、抑制の内に見出される麗しさだと此の曲が教えてくれる。


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ドビュッシー小組曲「小舟にて」

January 11, 2011

ズワイガニ姫のご提案で

"小舟にて" を演奏できた♪


 (撮影者:ギタリスト増井一友様)

大好きなのに演奏機会がなかった曲だから嬉しかった〜。言わずと知れたヴェルレーヌ "艶なる宴" を引いた楽曲ですネ。


空より暗い水面に 
金星(ゆうづつ)うかびただように
舟子(かこ)、股引のポケットに火打石たずぬるに。

さても皆さん今こそは二度とまたないよい時分
傍若無人にいたしましょう、さてもわたしのこの両手
以後かまわずにどこへでも!

騎士アチス切なげにギタール鳴らし
つれなびとクロリスあてに
あやしげな秋波(ながしめ)おくる。

法師(アベ)はひそひそエグレを口説き
ちと気の変な伯爵は
心を遠くへ通わせる。

かかるおりしも月の出て
小舟は走るいそいそと
夢みる水のそのおもて。
                                    (堀口大學様訳)


幾度も読み返した詩世界は

洒脱で少し怪しくて・・・


軽妙に管弦楽的色彩で奏したい曲。秋の水面と人物たちの影は、細くなよやかで艶めいて。そうして底にちょっぴりダークなイロニーを秘めている・・・

"小舟にて" を伴奏するならと、暇さえあれば下敷きの詩を繰った。作品風景に頭まで浸かって絵世界を音化する譜読みを経てやっと、拙いながら演奏の軸が生まれ出る。

20年以上昔、お師匠様金子篤夫先生が仰った。ヴェルレーヌとドビュッシーにとって切り離せない原風景を観なさい、って。登場人物たちに重なる貴族的な雅やかさと色彩を絶対に観なさいと幾度も。


強く勧められたワトーを

上野へ観に行った。


此れはね当時、上野の国立西洋美術館で行われた欧州評議会特別企画の図録なのヨ。後にルーヴル美術館で着目する以前にワトーに触れたお初の作品でした。

ヴェルレーヌ、ドビュッシーがインスピレーションを得て詩や曲に描いたフランスロココの色彩感。私も惹かれてゆきました・・・

*ブキニストで紙もの(1)シャルダンの絵画
*             (6)ジュール・ルージュロン

そしてね、いつか "小舟にて" を演奏したいナって願っていたのでした。

幾十年読みためた詩と見覚えた絵画が短い1曲に繋がるコト・・・
楽曲に取組む大きな喜びの1つみたい。

さあ用意してお医者様予約へ行かなきゃ。



曲決めは楽しい (2009年のお答えを兼ねて)

January 05, 2011

コンサートの選曲は楽しい。

ワクワクしちゃう。


しじみちゃんは、しきりと言った。"ジャック・イベールにハマっちゃってハマっちゃって・・・" って。

だからしじみちゃんとはイベールのイストワールから数曲を弾いた。
洗練された和声と洒脱なリズムの曲達だった。

牛君は、顔を合わせる度にプーランクのデカダンスとラヴェルのグロテスクを語った。

だから牛君とはプーランク & ラヴェルの退廃的な曲を弾いた。
虚無と情愛がほろ苦く交じり合う曲達だった。

ズワイガニ姫は、美しいドビュッシーをやりたいって言った。

だから8日PJライブはドビュッシー歌曲を入れる。
流麗で透明感の高い曲達を選んだ。


**


色んな方と合わせてゆくと知らなかった曲も多く教わることができて、本当に楽しいこと・・・

音出し前後の希望選曲はお相手のバックグラウンドが顕著になる。お相手をよりよく知ろうって思う。此の曲の何処が好きなのかしら・・・って共演者の心情を映してみる。

しじみちゃんと演奏した時、イベールの洒落っ気を備えるコクトーを読んでた。牛君と演奏した時、プーランクに詩を渡したルイーズ・ド・ヴィルモランを読んでた。ズワイガニ姫とドビュッシーを弾いている今はヴェルレーヌを・・・


**


蝶番君はレパートリーが広い。ルネサンスからフォーレまでを候補に話合うことになったワ。先の演奏に希望されたのはサティの変テコ系。

変テコ系? "ひからびた胎児" とか? "横着でけちんぼうで ろくでなし" とか? "太った木の人形のスケッチとからかい" とか?

サティの可笑し味や怪奇な様子に符合する本ってあるかしらね・・・ 頭の端で考えを転がしながら、年末にタピオカちゃんから届いた読みかけのポール・モランを開いたの。

あら此れ・・・
モダニズム小説って近い感覚じゃないかしら。

モダニズム小説は、断片性や意味の流動性を謳いながら、奥底では確固とした原意を持ってモンタージュを構築するのですネ。

ん〜っとね、ブルゴーニュ君が書いている具合のコト。
一見わけがわかんなかったり、無意味だったりに感じることが、最も内含を象っているふうなコト・・・


**


此の度の内含はパーシモンちゃんでしたよ。

ソクラテスとクリトーンのやり取りを引いたのでした。

パーシモンちゃんは前半のようにブルゴーニュ君が間違いを言っても、後半のようにほぼ正しく言っても、同じように尊敬の眼を向ける。其の事をブルゴーニュ君は愚かにも "賞賛を受ける" という位置に立ってしか見ることができません。


ソクラテスは

《思慮ある人の思いなしは有用だけれども》

と前置いたあとに

《思慮のない人のは、有害》

とまで述べるのでした。


ソクラテスは、

《非難を恐れ、賞賛をよろこばねばならない》

とする相手を選ぶ事を説いたのでした。

《かの多数者のそれではない》

として。


害悪と指す部分は

《もしそのただ一人の人の言に従わないとしたら、どうだろう。
その思いなしも賞賛も尊重しないで、多数の何も判らない連中のそれをありがたがるとしたら、
それで何の害も受けないというようなことが、果たしてあり得るだろうか。》
--- ≪ いや、どうしてそんなことがあり得よう。≫

って続きます。


《われわれは多数者の思わくを恐れて、これに従わなければならないだろうか。
それともまた、ただ一人でも、もし誰かそれに通じている人があるなら、
その人の思いなしに従い、この一人の人を、それ以外の人全部合わせたよりも、もっと恐れ、
その人の前に恥じなければならないのではないかね。》

《この先達に従わないようなことがあれば、われわれはかのものを虐待し、破滅させることになるだろう。
かのものとは、正しさによって向上し、不正によって滅びるものだったのだが、
それとも、そういうものは、何もないわけなのかね。》

                                         (カッコ内全文 田中美知太郎様・池田美恵様訳)


**


私なんかのよぼよぼ解説より、此ちらでモダニズム〜ポストモダニズムの概念が書かれてますネ。

サティやポール・モランが、そしてワンコなのに僭越でレベル違いですけれど、もしブルゴーニュ君が変テコな可笑しみを持ってるってちょっぴり思ってくださるお方が居てくださったらば、同時に其の可笑しみに潜みがある風を奇怪と感じてくださったらば・・・

その感覚が "フランス的" の意味に少ぅし重なるかもって思うのです。
そう、ずっと以前にご質問いただいて1年半以上ちょっぴりずつ書き加えていた事

*フランス的とは

2009年4月9日のお話に また少しだけお答えしたいと試みたのでした。



ドビュッシー「巷に雨の降るごとく」

January 04, 2011

過去2回くらいしか着たことがない・・・
だってね、とっても重いのです。


コンサートに出して頂くようになってお初に買ってもらったドレスでした。出ずっ張りのリサイタルや 解説に立ち座りするのなんて少しも想定しなかったとき。10数分の曲をたった1曲弾くためのドレスでした。

スポーツ選手みたいな演奏者のドレスにどんな条件が要るかもわかんなかった。生地が重い上に帯のパールの重量ったら・・・

プリントじゃない小花。柄が布に織られてるのが如何にも品良く思えて求めたの。此んな布地のクリーニング代がお馬鹿さんな額になるって知らずに。

よくある若い時のお買い物の失敗の筆頭デス。

1月8日のピアジュリ・ババールライブに着ちゃおうカナ・・・ 水色の小さなお花と雨に濡れたふうな光沢は、演奏曲のヴェルレーヌ & ドビュッシーの色合いって気がするもの・・・

*巷に雨の降るごとく


**


昨夜ちょこっとお勉強した。黒木教授の形見の書物、Jacques Robichez出版のヴェルレーヌ解説を読んだ。

ルペルティエ(Edmond LEPELLETIER 仏1846年〜1913年) へヴェルレーヌが書いたお便りの中、彼は詩を作った1872年を思い起こしているのですって。

此の頃ランボーと共にブリュッセルやロンドンを放浪したヴェルレーヌはね、巷に雨の降るごとくの詩を指して " la pluie londonienne " (ロンドンの雨) ってお手紙で言っているのですって・・・

恋人ランボーの思い出と共にあるロンドンの雨粒なのね・・・

今日はズワイガニ姫とのババール合わせへお出掛けの日。
練習はもちろん "巷に雨" から開始です・・・♪



共感と身丈

December 15, 2010

しとしと雨の夜に、

ヘッセ著 "郷愁" を読み終えた。


楽しかった・・・♪ 主人公ペーター・カーメンチントの心の流離いは、如何なる形で人を事物を愛するかを探る旅。共感を持ってページを繰り反省した。

私なんかが共感するのをおこがましいと感じることがある。何故って・・・

もし文豪や大作曲家に '共感' するとしたら、とても小さな自分の体験に照らしてのこと。作者作曲家の大テーマを多かれ少なかれ私の身丈に押し込めてしまう・・・

だから彼らは其のままに、自分が大きくなって寄り添えるよう努めたい。
たとえばよく演奏するショパンも・・・

私の矮小な経験と視界で分析するのは、自分の感覚世界に他者を閉じ込めることに他ならないから。分析は音構造にとどめて、精神部分は自分なんかが到底到達していない形を大作家さん方に教わってみたい。

*ショパン「スケルツォ」No.2

1つとして同じ道筋を経ていない者にできるのは、自分の目を持つことではないかもしれないって常々感じる。しなければならないのは、対象に添う目を保持することに尽きるのじゃあないかしら・・・って。

書物を読むとき、曲に触れるとき、お人と接するとき、いずれも。

自分の目から離れて書物や楽曲世界に添うてゆく時間が好き。
今夜の演奏も其んな風でありたいナ。

サティはサティの流儀で、イベールはイベールの感覚で。私の身の中へ縮めることなく 作曲者さん達に自由に生きてほしいと思う。

其うするために、添えるキャパシティを日々広げもっておくよう努めるのが自分にできる方法だって気がしてる。

=近頃のヘッセのリンク=
*辛うじて生きる
*ブクステフーデのパッサカリア



木馬の序--廻る歌

December 07, 2010

廻るものが好き。

木馬のお話が続いてた。


*日仏ことば遊び
*ときどき日本人

廻るものに魅かれる。同じ場所を廻りながら決して同じじゃないことに・・・ 場所だけが留まって 時は巡り、心は動いていくことに。

廻る歌もやっぱり好き。廻り繋がる歌詞のフランスわらべ歌のコト、せんに書きました。

*ブキニストで紙もの(8)カデ・ルセルのクロモス

同じメロディーで詩が変わる面白さは、後に音楽感覚へ繋がった・・・
旋律につく和声が変わるだけで新鮮なものが生まれるコト。
其のとき演奏はどんな風に和声に追従しなければならないかってコト。

難しいことはわからなかった7つの頃、教わったのは多分此んな歌。


    a 冬の寒い日     b 森の中を 
    a' クマが歩いた    c おうちをさして
    d 毛皮のシューバで d' とことこ歩いた
    a''角を曲がったら   c' キツネの尻尾ふんだ

歌詞は幾十年も前の担任イクラ先生の口伝えだけでウロ覚え。きっと間違ってるわね。イクラ先生も思い出し思い出ししながらだった。

題名も知らない。楽譜もない。伴奏もなかった。授業中に僅か2,3度先生が歌う単旋律で聞いただけ。それでも曲はくっきり記憶に残る。数十年のちの今日までも。

1) 前半。
耳を傾けたごく短い時間を追って、情景が溢れる詩の楽しさを知った。
(アルファベットはメロディー形式)

a 温度 * 冬の授業中。同じように寒い冬の歌。
b 場所 * 此処お教室じゃない森のお話。
a' 人物 * みんな大好きなクマ。
c 情景 * クマのおうちと通り道がある。

たった2行で4つの説明要素を網羅してる。可愛く簡潔で暖かく・・・ 詩や歌詞の世界はなんて楽しいんだろうって・・・

2) 中盤。
トーンが変わる。平行調mollに転調した。開眼した。

転調を楽典で学び始めたばかりだったから・・・ 単純な平行調への移行はハッとする音がするんだわって知った。

d と d' 印は同じ旋律。記譜上は同じでも異なる表情。d' でラレンタンド。イクラ先生はd' の最後を長いフェルマータで歌われた。次はどうなるの? どうなるの? って楽しみにする気持ちは、歌詞とフェルマータ付き "おあずけの時間" 両面で大きくなった。

3) 後半。
基調へ転調。メロディー ac が戻り a''c' になる。
2行目 a'c と違うのは、お話が今、前へ進み始めたってわかること。

フレーズが落ち着く後半で 反比例して内容が動き出す。同じメロディーに乗ってるはずのテーマ ac がまったく異なる様相を示す。

お尻尾踏まれちゃったキツネはどうするの・・・?
2番の歌詞へと続くのです。


**


この歌はお教室のストーブと、丸い目をしてるクラスメートの顔と、授業をうちやってしまったイクラ先生の歌声と、床油の匂いの中で教わった。眩く暖かい空間だった。

"シューバってなぁに? " って質問した。クマがどんな格好をしてるか知りたかった。廻る歌は次を知りたくなる。そして1つを知った途端、世界が幾倍も広がる体験をした。時の風景の輝きとともに胸の中に刻まれた。

此の歌に感じる暖かさは、詩から溢れるものか お教室の石油ストーブのせいか、新しい喜びを授けてくれる担任への多大な信頼か もはや見定めることもできない。

それくらい古く、そして現在まで豊かに活きる記憶なのです。


**


お陰で大好きになった廻り歌・・・
今日はね、廻り歌ふうのドビュッシー歌曲 "木馬" をズワイガニ姫と初合わせなのです。コンサートのお披露目は1月8日PJにて・・・♪



プロコフィエフ愛

October 08, 2010

愛すべき悩みびと、ラフマニノフ・・・


1番シンフォニーを酷評されてから幾年も曲が書けなくなってしまったのね。自信をすっかり失い苦しんで精神科へかかります。

神経症になるまで滅入ってしまった脆さは、後に珠玉のメロディーを作り出すのね。
私ねそれぞれの作曲家さんの心持ちに触れるのが本当に大好きです。

プロコフィエフも順風満帆な作曲家人生じゃなくて、国内外で多数回酷評を受けたワ。けれど彼のほうが図太さを持っていたよう・・・

爽快なリズムの中、紛れた苦渋。彼方此方ぶつかってしまう生き難さを思わせる運び。それでも折れず、時たま暴走モード・・・

ぶつかって立ち止まらず、ぶつかれば突っ切っちゃう感覚・・・強引なお方ネってちょっぴり可笑しみを感じる。共感する。ラフマニノフの性質と比べちゃったりする・・・ たとえば2番ソナタ。

3楽章の壊れそうな足許。でも足取りを乱さない。ラフマニノフなら終結はアダージオにゆかずに息絶える曲調を選ぶのかしら? って思いながら弾き進む。

3楽章終止は構造だけの終止。足許がとうとう壊れて座りこんだのじゃなくって・・・ 少し歩を止めた。小節最後に "次、4楽章やるぞぉ" って風な気配が感じられたりする。

今なお譜面の中に生きてる人。
プロコフィエフの太いエネルギーが好き。
ラフマニノフの傷つき易さと同じほど好き。

*プロコフィエフ・ソナタNo.2第3楽章



ドビュッシー「グリーン」

September 06, 2010

*明日5時半〜サンテレビ・ニュースシグナルご覧くださいネ・・・♪


ヴェルレーヌ "無言の恋歌" を読んだ夜。


ドビュッシーの筆で "失われた小唄" として一層密やかにして強く 私たちに訴えかける。


《水彩画の章の内》より
        
          グリーン           
                              堀口大學訳

受けたまえ、ここに果実と花と葉と枝とこそあれ、
またここに、わが心あり、君にのみあこがれて鼓動(う)つ。
真白き君が指(おゆび)もて、引き裂きたもうことなかれ
願わくば麗しの君が瞳に、これら貧しき捧げ物、美しとのみこそ
映れ。

朝の風冷たくもわが前髪に玉なせと結びやしけん
野の露に総の身ぬれてわれは来(き)ぬ。


ズワイガニ姫との楽屋。次の譜面を渡してた。ドビュッシーの此の曲、ご一緒できたらナって。

堀口大學の名訳を載せるのは2度目・・・
昨年色紙展のとき書いたのヨ。

野露踏み分け 朝寝のベッドの恋人の枕辺へ急ぐ鼓動を描いた詩です。すがすがしい風の旋律。堰切る恋の胸打つ曲調。

私には・・・
息もせずに駆けながら、泣いて駆けながら、耳の奥に此の曲が鳴り響いた日があった。

エレベータも待てず、ドレスバッグの重量も感じずに階段を駆け上がった日。駆けつけた枕辺は朝寝の其れじゃなくて、救急病院の恋人の枕元でした。

元気になっても忘れ得ないメロディー。
ピアニッシモのイ短調が激しく響いたこと。
走る呼吸が曲調にかぶさってたこと。

緊急時にも耳の中で鳴ったのはドビュッシー&ヴェルレーヌだったことをちょっぴり笑えるようになった今だから、此の曲が弾きたいの。




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