Le morceau Y



ラヴェル -- アリスブームです

December 21, 2013

今年はアリスがマイブームでした。


と言っても恥ずかしながら不思議の国のアリスを真面目にしっかり読んだ事がないのです。だからルイス・キャロルのアリスっていうよりジョン・テニエルの挿絵世界のフアンなのです。

特に好きなテニエル・キャラクターはロブスターで・・・

  *フランスと動物臭
  *ランボーの田舎

自分が好きだからって理由でお客様にもロブスターカードを押しつけたらば、其の方もアリスがお好きと知ってすごく嬉しくなっちゃった。


アリスに目覚めちゃったきっかけはラヴェルでした。


"高雅にして感傷的なワルツ" のミステリアスな音の群に触れるうち、ふとアリスみたい・・・って思ったんだった。短いお話がたくさん集まって1つのトーンを形成してて、1つ1つは独立してるようで繋がってもいて・・・

あとのお話を読むうちに前の世界の登場人物 (音モチーフやメロディー) が急に現れる様子もどこか似てた。

**


曲中幾度もテニエル画を思い出してた。

以前プーランクがシェーンベルク風に展開された場合を書いたけれど "感傷的なワルツ" にも該当しそうなところがあるみたい。

  *プーランクのテクスチャー

アリスを例にすると "如何なる理由でロブスターは縦に立って歩いてるんだろう? 立つと前を向く脚はどう役立ってるんだろう? " って難問を解こうとするとシェーンベルク風になってゆくのかも。

[ロブスターは元々横に寝てる] って概念に囚われずに、[この世界のロブスターは立ち歩く生き物] って想定から導くとどんどん愛らしい曲に感じられてきた。

可愛くて、ちょっとだけグロテスク。
大好きなラヴェル・バランスです。



ゴイェスカス

December 17, 2013

スペインものは大好き。


クオーターのお師匠様のお国の1部でもあって影響を受けてた。

お師匠様の演奏は華やかなギター調も多い。
激しさをもって音が強い太陽と土埃の風景の中へと拡散するかのように演奏されるのが印象的だった。

アルベニスやファリャが特に素晴らしくお背中を追いたい気持ちにさせて頂いた。


グラナドスは前作曲家たちと別の風景に思えてお師匠様と話し合ったことがある。
私個人の中のグラナドス像は、って限定つきで通論とは無関係だ。


通論から考えればグラナドス・アカデミーで育ったラローチャを師としたお師匠様のラインがグラナドスの大枠と考えて間違いないのだ。

どう鑑みても間違いのない、世界に名だたる名ピアニストと違うことがしたいと言う者なんかお笑いぐさだったろうにお師匠様は細かに一生徒のグラナドスへの触感を聞いてくださった。


グラナドス、特にゴイェスカス内で希んだのは
[昇華し切れないもの] の現れだった。


割り切れないものと、割り切れなかった心残りと・・・感傷の行き場なく、伝えそびれたものが滞留する大気の佇まいを感じられる演奏はどんな風だろうって考えてた。

自問を重ねる時期にクロード・ベリ監督の映画がサジェスチョンをくれて嬉しい。

  *シネマ記録(7) 愛と宿命の泉Part.2



ラ・ボエーム音源

December 07, 2013

2013年最後の慌ただしい月。


冬のミニ薔薇を植え替えた。
ガレージに差込みアーチを立て、お外用雑貨を配置換えした。

夫のクローゼットの小間物引出しの中身を入れ替えた。
冬用靴下を手前に並べ直して、コンサート用の靴下部分は仕切りを備えた。

譜読みは大分進んだ。
古典曲への考えが数年前と変わってきてるのを感じてる。
夫とトリルの入れ方を揃えるため話し合いながら合わせをした。

大雨が多かった秋に、古い拙宅の防水切れに気がついた。
工務店からの下見や段取りに数時間取られた。

マスカットのケーキを立て続けに焼いた。
大きなのを焼いたのにすぐになくなってしまったんだった。

お年上のお姉様へお届けする宅急便を作った。

**


暮らす事、生きる事、生活する事が好きだ。

不義理や取りこぼしは多いけれども取捨選択はあまり迷わない。
不義理でも不要な事は不要で
不合理でも必要な事は必要だ。
大事な事は自分の中で決まってて選択は長年動くこともない。

シャンソン、ラ・ボエーム。
青春時代を過ぎた男の胸の痛みが歌われる。
人生の回顧の曲を聴くと、十数年後に今を振り返った時どう感じるだろうって思う。

沢山の失敗はあっても何にも振り回されずに、自分の手が選び招いた人生と思えれば幸せだろう。後悔することがあっても恥じることがない人生であれば、どんなにか心穏やかだろう。





"パリ空の下"

November 29, 2013

古カードルを頂いた。


入れるものがなかったから〜・・・ネウマの切れっぱしを取りあえず挟んでみた。


阪神淡路大震災で壁の角っこに縒れた風な傷がついたのを隠してるのは100年前のレースです。


**


シャンソンは曲も演奏も様々で歌い手さんの表し方はそれぞれ大きく異なって、時には曲の意味さえ変わってくる。私たちが一等悩んだのは "パリ空の下" でした。

  私にとって "パリ空の下" は物乞いの際の音楽になってる。

自分の限られた体験の中で此の曲は、歌詞つきの歌を耳にする回数よりも生活に困窮する人々が道端で、メトロの中で、橋の上で、コインを無心するときによく聞く曲だった。

生きる困難を語り、僅かばかりの金銭や食堂チケットを要求しながら人々の間を回って鳴らす曲。アコーディオンはじめ様々な楽器を通した演奏は、何らかの訓練を受けた風はごく少なくて。
拙いからこそ "パリ空の下" の生活風景が現実感をもって迫った。

街が見守る彼らを街ごと愛した。其うしてブーカブーカ上手く空気が入らないアコーディオンと路地裏のパリが甦る曲になった。

**


説くような歌詞表現のグレコも大好きだし、エレガントに魅せるモンタンも麗しく、人生と暗みが溢れ過ぎるほど強力な世界感を出してるピアフに脱帽する。

それだのに私の中では道路やメトロ内の騒音に邪魔されながら、演奏は詰まりながら鳴らす曲であり、《5フラン硬貨でいい、無ければ幾サンチームでもいいから! 子供に食べさせられる安食堂のチケットを下さる方は居ませんか。今日の風避け、今日の食べ物が必要なんです。》と張上げる科白つきの曲になって浮かぶのだった。


取りあえずボジョレーの日のバージョンは此んな感じでした。






日本語シャンソン

November 09, 2013

ぼやきです。


お風呂上がりのお茶時間。

シャンソンに苦労する夫と思い浮かぶままおしゃべりした。

夫の場合の苦労は音符下につく日本語歌詞が目に入るのも原因の1つかに見えた。

私はもともと日本語シャンソンの意味を理解してない。
うんと昔にチラッて考えてみたことはあったと思う・・・

原語と語順が変わるせいで音楽的なフレーズの表裏と語の表裏にズレが多いのが訳当て歌詞。 詩の訳と根本的に違った目的で、音に当てる形の歌詞付けに起きる齟齬や、勿論其処へ含まれてくる日本語の母音の多さなど難題は多数。

其して言葉は背景を引き連れてくるものだから
基になる風景が異なる背景言語を当てるのはもっと難題で。
それに比べると音楽的表裏優先のために意味を変えた訳詞の方が
むしろ小さな問題に感じたりしたんだった・・・

数ある大問題を掲げてまで訳当て歌詞をつけなきゃならないほどの魅力が其処にあるかどうかって知るより前に、考えるのを辞めてしまったと思う。触れてこなかったジャンルだから、どっちみち私などに判りはしないのだった。

昔を思い出し其んなおしゃべりをしてて・・・


メロディーラインを演奏する夫の苦労の原因を探った。


当て語に視覚から煩わされるなら楽譜から消しちゃえば?
音に添って流れる原語だけ見えるほうが良いかも? って言う内に

夫は夫で、日本語シャンソンはどうして
お定まりの歌い回しをするんだろうって言い出した。

1日の終わりに眠いねって言いながら一緒にビスケットなど食べながらぼんやり交わす会話は焦点がない。

当て語じゃない歌詞訳なら、背景に添うのも、メロディーに添うのも可能なところが多そうに見受けられるのに、其れらどれでもなく何を軸にして出てきたパフォーマンス部分かが私たちのような日本シャンソンを識らない者には不明な点は確かに多い。

夫は、誰か始祖でも居て、始祖の歌い回しを世襲しなければいけないコトにでもなってるんだろうか? なんてぼやき、私はわからないとしか答えられなかった。

結論がないまま湯冷めしそうになって2人で椅子を立った。
昔と変わらず此の件は中途で考えるのを辞めたくなるよう。

私たちは器楽分野として、フランスの小唄としてのシャンソンの立場に徹しよう。


今日のブログは暗くやさぐれてる雰囲気が出ちゃったかも。


ええ、やさぐれていますとも。

理由はまた明日・・・



お稽古を諦めたい時

November 06, 2013

ご飯準備の間、夫と古いレコードをかけた。


11月26日、日本の歌公演のプログラム決めには行き着かない。
ソロは、脳がどうかしてるかしらって思うくらい捗らなくて。


何度弾いても上達がない。


同じところを間違える。
同じところ・・・って認識もできないくらいに
間違える場所が多過ぎる。そもそも曲が通らない。

  毎回のことだ。

永久にやってても、永久に弾けないままじゃあないかしらって
我ながら呆れる。

お稽古の間、もはや曲内容を考えるどころか
騒音の断片はいったいいつかは曲になるの?
ってばかりを思う。

延々同じ様子で何1つ成長ない自分がほとほと厭になる。
できる日が来ないんじゃないの?
無理なんじゃないの?

毎日毎日自問するのが苦しくなって
次には苦しさにさえ厭きてしまう。

同じとわかって翌日も性懲りなくピアノに向うのは
希望ない状態を長々続けるうちに脱することができた経験を
頼りにする気持ちだけかも。

あんなに酷い状態から扉が開けたことがあるから
今度もきっときっと其うなるかも? 其うなって! って。


今日もきっと昨日と同じだわってピアノの前に座る。


昨日と同じところで間違えて
一昨日のように曲は通らなくて

遅々として進まない譜読みに作曲家を怨みたくなって
コンサートに絶望的な気分になって

進歩のカケラもないのに人は物事を続けられるかしらって愚痴ばかりが頭の中に渦巻いて。


  あれ・・・? って急に目の前が開ける。
  譜から鍵盤に写し取るのが精一杯だった曲が
  独立した1曲に聞こえる一瞬。

  譜面が濃くはっきり目に入ってきて
  部品だった音が楽曲の言葉に繋がってきて

ああ先が見えた。
やっと見えた・・・

泣きそうになって安堵した。

此処から先の仕上がりまでの期間のほうが
長く重いと自覚して、また泣きそうになった。



ラヴェル "水の精" へ思い入れ

October 06, 2013

右奥はいつから使ってるかもわからないアラジンストーブ。
そろそろ冬の準備ですね。


夜中のお茶時間だったかな、夫とラヴェルのおしゃべりをした。

昨日の続きになるかな・・・

  *フランスと動物臭

いつの間にかピアノ曲 "水の精" の話題になった。
アロイジュス・ベルトランの詩による夜のガスパール1曲目。

便宜上曲のお話カテゴリーに入れるけれど個人的な思い入れに過ぎない。

散文形式の詩で、水の精が求愛した男性によって彼女の心が破れるストーリー。

水の精との結婚は湖の底で王になることを指す。
男性は人間の女を愛していると答え水の精は泡となって消える。

  でも心理的には無色透明の泡には思えなかった。


幻想的な光景の中、美し気な水の精が濡れて登場する絵画的なシーンだけれど、
水の精その人に儚い淡さを感じていなかった。


恋に破れて涙を流す美しい水の精。
けれども彼女のは諦めの心持ちとは違ってる風に思えた。

最終行近く

《boudeuse et dépitée, elle pleura quelques larmes, poussa un éclat de rire, et s'évanouit en giboulées qui ruisselèrent blanches le long de mes vitraux bleus.

いまいましい顔をし、涙を流して恨みごとを言ったと思うと突然甲高い笑いを残し、青い窓硝子に白くつたう雨滴となって消えた。》

**


  青い窓硝子の透明感
  水の滴の透明感
  月明かり(前半部分 par les mornes rayons de la lune )

すべてが泡沫の、たまゆらのものとして描かれる。

中でももっとも果敢無いのは男の心かもしれない。

水の精の詩中に前後描写はないけれど、ウンディーネ伝承を基に描かれた詩ならば、設定は以前に水の精に一瞬心を動かした男性が前提の気がする。恐れと保身からくるエゴの前に泡と消えるのは水の精その人ではなく愛のほうだ。

  流れる水、降り注ぐ星、溢れる涙、
  そして定まらない男の愛。

登場するすべては短命に消えゆくもの。
水の精自身も地上から見ればひと時の夢。


其うした中、ただ1つ英気と気迫を保ったものがオンディーヌの心に思えてならなかった。


彼女は諦めて気弱に去ってはいない。

恨みを言い残し、自虐的な高笑いを響かせ、
自虐に至る材料となる娼嫉と憎しみを抱いたまま
男の前から掻き消える。

湖を抱く窓にいつまでも甲高い嗤いが木霊するような
念を残したラストに感じた。

  なんとカセットテープで録ってたあまりに古いライブ音源が
    此方に残っています。
      音量にお気をつけられてクリックしてくださいね。

明日はブルゴーニュ君ネ。



海の死と墓地

September 19, 2013

プロポーズをされた翌日、私たちはお墓の相談をした。


一緒のお墓に入るのだと夫が言ったのだった。
成り行きで教会のお墓のおしゃべりになった。

墓地のお話は幸せだった。
空想の中の2つの骨壺はぴったり寄り添って置かれてた。

来週ラ・クロワ第2幕でフォーレ作曲 "墓地にて" を演奏する。


  *"墓地にて" 落合訳

**


  第1部分は日中の静かな墓地。
  埋葬の悲しみに暮れる人々を見ながら
  墓地に眠ることができる幸福を歌う主人公。

  ==

  対して第2部分は海に沈んだ人間を思う場面になる。
  葬られもせず水底で裸の遺体となるむごさ。

  ==

  第3部分は第2部を挟む形で
  穏やかな悲しみ漂う第1部分が戻る。


身に近い大切な人を海で失った主人公が思い浮かべる無情な波のモチーフは、第1、第3部分より速いテンポを取ることもできるだろう。私も最初の頃のお稽古では其う弾いていた。

declamato の指示。海の死の場面は墓地の埋葬に集った主人公の情念の回想と捉えれば、

墓地 -- 海 -- 墓地の描写は、
  1)目の前の具象
  2)瞼の裏から離れない深い海の底の光景
  3)具象に戻り香り草匂う墓地
を対比に乗せるのが音楽としても自然で簡潔と思ってた。

  けれども弾き重ねてゆくうちに
  3部に作られた意味を考え直した。

    此れは回想でも心の奥の狂乱でもないのだ。

    墓地の風景と同じく今現実にある具象なのだ。

主人公が墓地の埋葬に立ち合っている今の瞬間に
海の底で揺れている遺体がある。


教会の鐘のように4分音符が時を刻む第1、第3部分と
3連符が加わり大きな波の揺れを表した第2部分は
双方とも墓場の形ではないか。

墓地の鐘と波を違わず同じ速さで打つことが
主人公の想いの中だけで起こっているのじゃない現実感を
与えることになりはしないだろうか。

壊れゆくような下降和音には主人公の心持ちのみならず
残酷な波と無惨な遺体を重ねることもできるだろう。

**


数え切れない映像と限りのないイメージをくれるフォーレ歌曲が大好きだ。



僧院の廃墟にて

September 18, 2013

フォーレ作曲 "僧院の廃墟にて" がとっても興味深い。
9月23日ラ・クロワ第1幕に演奏する曲。


歌詞はビクトル・ユゴーの4行詩。
原詩は9節。フォーレが一部改訂して4行詩10節に仕立ててる。

舞台は廃墟となった僧院。
恋人たちが戯れ遊ぶ。

長い詩の一等最後にわかるのは
陽気に抱き合うつがいが小鳥たちだったということ。

  此の小さなトリックはトリックに留まらず
  物語をイリュージョン世界へ誘うようなのだ。


僧院 (le monastère じゃなくて大修道院を表す l'abbeye が使われている) は
人の気配を失って静かに沈黙している。


けれども恋人たちの遊戯によって一旦は安堵が齎されるのだ。
里を離れた廃墟じゃなくて庭には恋人同士が憩うのねって。

  最終行で小鳥のつがいとわかるまでは。

C'est l'histoire des oiseaux.


この瞬間、"なぁんだ、鳥だったのね。" のトリックとは違う
もう1つの目に見えない幻術に出会える気がする。

修道会の人たちが大勢行き交う場所を舞台にしながら人が欠場している不安定感、その上に読む側が1度は空想の中で見てた2人が幻のように掻き消える。

  この形によって一層人の不在が強調されはしないだろうか。

**


詩のはじめにも終わりにも人間は存在していなかった。

  詩のはじめには修道会の人たちの残像を感じ
  詩の終わりには1組の恋人たちも幻になる。

  小鳥もまたいつか飛去ってしまうのだろう。


フォーレが手を入れた数カ所の内


Les tombeaux, de croix marqués.
 Font partie
De ces jeux, un peu piqués
 Par l'ortie.

の6節部分が削除されている。

  十字架の刻まれた墓は
  イラクサの小さな棘に刺されつつ
  遊ぶつがいの一部となる

当節なくしても充分に感じ取ることができる鎮もった情景を
残る節の軽やかな8分の6拍子が彩る。

事物は思い出となり、思い出を携えた人もまた消え
永劫を生きることができない我々に
栄えた建造物の跡と草木と鳥たちは
生死無きが如く風景を見せる。

不思議な静けさは慈愛の情景に思える。


*お席数限定ラ・クロワ
?僕が見たクレオール
*9.23ラ・クロワ残り席
*悲恋 9.23 ラクロワ・プログラム
*9.23 ラクロワと夏のお花



ゆりかご

September 10, 2013

疲れ過ぎた先週をひきずって体調戻らず。
休んでばかりの昨日でした。


午後半分まで寝ながらジャンケレヴィッチ書を読んでた。

フォーレ歌曲 "ゆりかご" について書かれた部分を見つけたの。

  *"ゆりかご" 落合訳

とっても素敵だったから引用しますね。


9.23ラ・クロワで演奏する1曲です。


《フォーレは、いうなれば、舟とゆりかごの同義性を楽しみ、以前にもあったように、変ニと嬰ハの両義性を活用する。
いいかえれば、ただ一つの意味を表すべく定められた言語というものが、観念的な象徴や、わざとらしく学識ぶった類推を総動員してもなお、ぎこちなく間接的にしか表現できないのに対して、音楽はポリフォニーと転調が可能にする秘めやかな照応関係をつきつめることで、それをやすやすと達成してしまうのである。

というのも音楽は本来の意味と比喩的意味、文法学(グラマティック) と霊物学(プヌマティック) の、それぞれ一方を選択する義務を負うているわけではなく、双方を同時に目論むことが可能であり、一方から他方へと自由に行き来できるからなのだ。

"ゆりかご" はゆりかごと舟歌を一体にしたものである。
その音楽が思い起こさせるものからすればゆりかごであり、それが暗示するものからすると舟歌になるのだが、いずれにしても、曖昧で精妙なその音楽は本来の意味から比喩的意味へろ絶えず揺れ動いている。》

             (小林緑様・遠山菜穂美様訳)


ジャンケレヴィッチ氏の文章って、お聞きになったことがない方にも音楽を聞かせる如く流れて素敵だワ。

舟歌全般についても大切な文が書かれてた。


《フォーレの作品中、実際には子守歌である舟歌がたくさんあるし、同様に舟歌である子守歌はさらに多い。

その理由は、水の揺れ動きは眠りや感覚器官の麻痺というよりも魂の静けさを促すからであり、めまいによる心地よい無気力状態というよりも内面の平安をもたらすからである。

つまり二つのイメージは互いに妨げ合うことなく、夜のしじまを愛する人が自らの胸の鼓動に聴き入るのを助けるのだ。これらのリズムがとりわけて精緻に作られているのはそのためである。
フォーレの子守歌にして舟歌である音楽は明澄で鋭敏、かつ警戒怠りない意識を必要とする。》

**


穏やかな揺れ・さざなみといった表現は、耳にすれば安穏の気配を持つせいで演奏も無闇に脱力した (それは多くの場合、逃がした力の行き先をコントロールできない。力を微細に配当することは "無闇な脱力" と異なる前提で) イメージをおぼえがちだけれど違っていますね。

安らぎを造り出すために必要なのは精緻さだと時々生徒ちゃんに言う。

意識は安らがせず、意識は研ぎすませば、魂は安らぐ。
フランス音楽で考え逃してはならない部分だナと思う。


■訳すということ関連リンク
*訳すということ(1)野鳩
*       (2)椿姫の白
*       (3)マノン・レスコー
*       (4)カフェオレのボウル
*       (5)マカロン
*       (6)マリア様のお顔
*       (7)クロモスとお友達
*       (8)伴奏
*       (9)エコルセ
*       (10)メープルクッキー
*       (11)スタンダール
*       (12)演奏通訳


■訳詩リンク
*"ロマンス" 落合訳

*"リディア" 落合訳
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    *リディアという女性
    *バロックとgalantuelles

*"月の光" 落合訳
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     *月の光と諦念
     *月の光に溶けて消える
     *月の光と母性
     *フォーレ "月の光"

*"イスパーンの薔薇" 落合訳

*"トスカーナのセレナード" 落合訳
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      *トスカーナの気配
      *フォーレ "トスカーナのセレナード"
      *トスカーナに憑かれて
      *フランス気質と音さがし
      *19世紀の恋情
      *トスカーナのおしゃべり

*"罪の償い" 落合訳
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*"墓地にて" 落合訳
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*"眩耀の夏のひとひ" 落合訳
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*"祈り" 落合訳

*"黎明燃え広がりて" 落合訳
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*"夢のあとに" 落合訳
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*"クリメーヌに" 落合訳
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    *フォーレ "クリメーヌに"


*"水のほとりに" 落合訳
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*象徴(6) "蝶と花" 落合訳

*"水に浮かぶ花" 落合訳
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*"ゆりかご" 落合訳

*"この世にて" 落合訳
*"漁夫の悲歌" 落合訳
*"秘密" 落合訳
*"棄てられた花" 落合訳
*"秋" 落合訳
*"贈り物" 落合訳

*"森の鳩" 落合訳
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トスカーナのおしゃべり

September 05, 2013

9月はじめ。例年ならまだまだ薄手のお布団なのにね。


真夜中急に気温が下がって寒いネ・・・って
寝具ストックがまとめてあるクチュリエへ
2人で暖かい冬物を取りに行った。

  引き出しを開いて
    どれにする?
      日常の些末な会話。


よく見なくちゃわからないほど淡く薄れたダマスクが好きで
カバー類も同じ風な模様が集まっているのを見比べ選んだ。


  真夜中も過ぎて
    一緒に選んだ掛け布団に包まって
      あったかいネって言いながら
        トスカーナのセレナードのお話をした。

**


歌い手が立ち続けたのは想いを寄せる人が居る窓の下。
それは寝室の窓だったと詩の冒頭でわかります・・・
O toi que berce un rêve enchanteur,
Tu dors tranquille en ton lit solitaire


寝具に触れたのをきっかけに勿論此の曲が浮かんだ。
寝室を整えながら思い浮かぶままおしゃべりした。

焦がれ、力尽きてしまった主人公歌い手も
此んな暖かな場所を夢見たのかな。

せんに此のセレナードの伝承を季節を追って空想したことがあった。


  *トスカーナの気配

季節とともに主人公の心も移り変わってはゆかなかった?

希望に溢れて求愛し
振り向いてもらえると信じて歌い続けた。
応えてくれない現実に目をつぶりたくて
捨て置かれる予感をなかったことにしたくって
信じれば叶うと必死の思いで願った。
月日と共に弱った心は
本当は叶わないと知っていた?

悟ったのは、歌い止めたときが恋の終わりということ。
だから歌い続けた。

窓の向こうの人を想うことから始まった歌は
諦めそうな自分への意地に変わった。

**


  テンションの強弱じゃなくって
  曲のテンションの変化を作ってみる?

ぽつりぽつり話しながら眠りに落ちた。


*"トスカーナのセレナード" 落合訳
*トスカーナの目覚めと眠り
*トスカーナの気配
*フォーレ "トスカーナのセレナード"
*トスカーナに憑かれて
*フランス気質と音さがし
*19世紀の恋情



ババールカードVol.14と優しき歌

August 19, 2013

ババールカードVol.14ができました。


  8月22日(木) 19h30
  PJ 真夏のライブ "群青" でお配りするカードです。

主催様がプログラムを用意されるコンサートはババールカードが出ないけど、このところライブ形式が続くから連続発行ですネ。

先回同様に楽曲のプログラムノートも書き込んでいますから
お読みになりながら聞いてくださいネ・・・♪

今朝は "黎明燃え広がりて" のおしゃべりの続き・・・

  *優しき歌とリディア

  *"黎明燃え広がりて" 落合訳
  *黎明、希望と決意


今週木曜にピアジュリアンで演奏する "黎明燃え広がりて" は、先日から話題にしてる歌集 '優しき歌' に収録されているのですが、


《全21篇から成る '優しい歌' のうち、フォーレは9篇の詩を選び出し、その順序も入れ替えてまぎれもない交響曲にも似た形を作り上げた。》とジャンケレヴィッチが解く歌集そのものが大変興味深いの。

"フォーレ 言葉では言い表し得ないもの・・・" からまた少し引用しますね。

**


《'優しい歌' の喜びは現在を肯定し、未来に望みをつなぐ喜びである。

喜びを歌うこの良き歌たちは、フランス音楽の流れのなかで、ショーソンの深い憂いと、そしてエレジーや悲しみの歌などデュパルクのいわゆる "ラメント" と、対をなしている。

世紀末に暗い影を与えた荒廃が果てしなく拡がっていくなか、後に続く "秋の詩" や "秋の黄昏" に先立って、'優しい歌' は歓喜の爆発として、また幸福の確かな証として、その響きを炸裂させる。


ここには自然と人間意識との魔法のような一致が、具象と抽象との類義性が、そして地上の春と人間の愛情との異名同音風な関係が現前している。


何と若々しく美しい春であろう。もっとも少し狂気じみてはいるけれども --- というのは、5月というのはいくらか人を狂わせる月だからである。ただしそこにあるのは、ワリャーグ人を思わせる荒々しい春の祭典では決してない》

             (小林緑様・遠山菜穂美様訳)

**


喜びの性質・種類というものを考え合わせるべき此の歌集は、歌集内の流れ・後の後期作品に続く流れ共に好奇心がくすぐられます・・・♪

8月22日(木) 19h30〜
デュオ・ババール "群青"

ピアジュリアン078-391-8081へご予約くださいネ!



今日はババール合わせとレッスンだけの1日。嬉しいナ・・・
夫とず〜っと一緒にいられて、合わせし放題の日。えへへ〜


■ジャンケレヴィッチ関連リンク
*フランスと4.20PJ写真(2)演奏中
*グッゲンハイム道順とババールカードVol.12
*お席数限定ラ・クロワ
*音とお庭
*間際の悩み
*七夕はPJへ
*裏口のカードル
*延期
*ダサいお菓子
*西宮ミュージックパーティー
*七夕ライブ
*七夕PJ、星灯りのプログラム
*優しき歌とリディア



精霊流し--裏ババール

August 16, 2013

8月15日、マリア様被昇天記念の大祝日でした。


終戦記念に思いを馳せた方、お盆行事をされた方。
お1人お1人にとって忘れられない人を思い浮かべた日になったことでしょうね・・・


   《精霊流し》

             作詞作曲:さだまさし


去年のあなたの想い出が
テープレコーダーから こぼれています
あなたのためにお友達も
集まってくれました
二人でこさえたおそろいの
浴衣も今夜は一人で着ます
線香花火が見えますか 空の上から

約束通りに あなたの愛した
レコードも一緒に流しましょう
そしてあなたの 舟のあとを
ついてゆきましょう

私の小さな弟が
何にも知らずに はしゃぎまわって
精霊流しが華やかに始まるのです


あの頃あなたがつま弾いた
ギターを私が奏いてみました
いつの間にさびついた糸で
くすり指を切りました
あなたの愛した母さんの
今夜の着物は浅黄色
わずかの間に年老いて 寂しそうです

約束通りに あなたの嫌いな
涙は見せずに 過ごしましょう
そして黙って 舟のあとを
ついてゆきましょう

人ごみの中を縫う様に
静かに時間が通り過ぎます
あなたと私の人生をかばうみたいに





七夕ライブのアンコールの様子です。
"裏ババール" といって、クラシック外の曲もたまにはネ。
譜面がなかったので耳コピーで弾いています。

歌詞がない分、本曲よりもゆっくりなテンポ設定にしました。



愛の歌とオズィ

August 14, 2013

《愛の歌》


     《愛の歌》

             リルケ    
             富士川英郎様訳

お前の魂に 私の魂が触れないように
私はどうそれを支えよう? どうそれを
お前を超えて 他のものに高めよう?
ああ 私はそれを暗闇の
なにか失われたものの側にしまって置きたい
お前の深い心がゆらいでも ゆるがない
或る見知らぬ 静かな場所に。
けれども お前と私に触れるすべてのものは
私たちを合わせるのだ 二本の絃から
一つの声を引きだすヴァイオリンの弓の摩擦のように。
では どんな楽器のうえに 私たちは張られているのか?
そしてその手に私たちを待つ それはどんな弾き手であろう?
ああ 甘い歌よ

**


オズィ・ソナタNo.3を紹介するのにイメージに合う詩はないかしら? と問うと、夫が見つけてくれました。
リルケ1907年〜08年 "新詩集" に収録の愛の歌。


ライブ動画は、歌曲が続くなかに挿入した器楽曲です。

オズィはファゴットオリジナル曲を書いた数少ないファゴット奏者。作曲家としてよりも奏者としてのオズィが見えてくる6曲のファゴットソナタの中でも、此のNo.3が大好きなのです。






演奏中ドアーから彰タンが登場していますね。うふふ〜



優しき歌とリディア

August 12, 2013

マダム・ビスコッティに頂いた何とも可愛らしいコットン・リネンをupしながら。


乙女心をくすぐるファブリックに対して今朝の曲のお話は
ぐんとオトナな世界です。

8月22日、木曜夜にピアジュリアンで演奏の "黎明燃え広がりて" のジャンケレヴィッチ解説が素晴らしいので引用しますね。

Dur曲を描くフォーレもよく顕していて、訳者様の文章と共にとても素敵なのです。

  *PJ夏ライブ・群青プログラム
  *8.22 PJライブ群青

  *"黎明燃え広がりて" 落合訳
  *黎明、希望と決意


(フランス音楽のお話で拙ブログ上のテーマ部分を
本書にはない下線でマークしています。)


"暁が広がり・・・" は結婚を祝う、信頼にあふれた、そしてフォーレにはめずらしいト長調を採用しているが、このト長調は転調を待ちかねて、いっときもその場に収まっていない。

アルペッジョは単なる装飾的な音型に留まらず、絶えざる進展の結果として変容し、ピアノとオーケストラのためのめまぐるしい "幻想曲" 作品111におけるように、もともと不安定なアラベスクを結び合わせるのである。

ヴェネツィアの主題への回想とアルルカンに寄せるちょっとしたモチーフらしきものが時に旋律線を活気づけはするが、しかしそれとて三連符も細やかな音の飾りも繰り返しはしないのである。

いま述べたような錯綜したさまにありながらも、この音楽家は決して思考の脈絡を失わない。相手の詩人に比べて、音楽家の何と天真爛漫なことだろう! 歌の終わりには一種の再現部がもたらされるが、そこでは風が止んだため、アルペッジョが前よりゆっくりと、子守唄のリズムに乗って奏でられる。

ここでフォーレは故意に原調から大幅に遠のき、そしていまわの際にト調主和音をさりげなく再現する喜びをとっておくために、やすやすとヘ長調へ身を寄せるのである。

同様に "ピアノ五重奏曲第1番" のアンダンテも、すでにト長調の主音とその調を再確認したあとで、終結の3小節前で静かにホ長調に向けて歩んでいた。しかしこれは偽りの結末であった。さきほどまで蒼空に大きく天翔けていたあの音楽、それが今は親愛と日々の生活を示す楽しい道に戻っているのである。

             (小林緑様・遠山菜穂美様訳)


特筆すべきは "黎明燃え広がりて" の変容するテーマは "リディアのテーマ" であるってコト♪


  *"リディア" 落合訳

其んなわけで "群青" プログラムには黎明とリディアを入れてるんですヨ・・・♪ どうぞ聞き比べてご覧になって下さいませ。

8月22日(木) 午後19h30〜
デュオ・ババール 群青

ピアジュリアン078-391-8081へご予約くださいネ!



ん〜月曜朝からちょっと固かったかも・・・
後期フォーレははじっこを聞くと絡み合いは複雑に思えても、取り留めない音楽とは違ってるってお話をしたくなったのです。


■ジャンケレヴィッチ関連リンク
*フランスと4.20PJ写真(2)演奏中
*グッゲンハイム道順とババールカードVol.12
*お席数限定ラ・クロワ
*音とお庭
*間際の悩み
*七夕はPJへ
*裏口のカードル
*延期
*ダサいお菓子
*西宮ミュージックパーティー
*七夕ライブ
*七夕PJ、星灯りのプログラム



"エリーゼのために" を弾きました

July 14, 2013

"エリーゼのために" を演奏しました。


子供のころには弾かなかった曲。
今頃になって1度やってみたくなった。

プログラム内には入れられなかったけれど
アンコール曲ならアリかな? って。

  どこかのおうちの窓からお稽古が聞こえたり
    昔々発表会で誰かが弾いてたり
      小さな女の子に似合う1曲を
        ちょっとオトナ風にも作ってみたくて

冒険しました。




今日はフランス革命記念日ですネ。
空軍のアクロバット飛行、海軍学校のマーチング、
青い空の下で行なわれる式典を夢想しつつ・・・

暑い日になるのカナ。



メンデルスゾーン・プレストアジタート

July 13, 2013

(撮影者:赤嘴クイナちゃん)


七夕ライブの写真ですヨ。


(撮影者:十姉妹ちゃん)


此の日の音源が手元に来る前に4月のムービーをupしておきますネ。

長いのでiMovieで適当にカットしました。カット部分が判るよう幕の制止画像を1秒ずつ挿入してみた。お初のお試しで挿入画像の良い使い方がまだ見つかってないワ。

曲はメンデルスゾーン・プレストアジタート。




今日も蒸した日になりそう。
朝はレッスンがないから譜読みの半日を送ります。
まずはショパンから頑張りましょっと。



七夕ライブ

June 27, 2013

生徒ちゃんからの結婚祝い。


どさくさになっちゃってPJ七夕ライブの宣伝が遅れてました。

お年始に蝶番君から頂いたお年賀状にあった曲

  *噛みしめて。お年賀状とマメマメ

フォーレ "月の光"を7月7日七夕ライブで演奏します。


同じく蝶番君に頂いたジャンケレヴィッチ書籍にとても美しい解説があったので引用しますネ。


《主役を貫き通すのはピアノであり、声は時おり伴奏役に回っている。
ピアノが最初12小節をひとりで弾きながらメヌエットの主題を呈示、その主題は歌にもテキストの暗示するものにも引きずられることなく、完璧なまでに澄みわたった音調で自らの道を最後まで辿っていく。

声がどのようなシンメトリーともかかわりなく展開する一方で、指は鍵盤にやさしくからみつき、一様なざわめきの続きとして、なおもやさしくメヌエットの憂いにみちた固定楽想を私たちに聞かせるのだ。

人の像の白い肩と大理石の泉盤に落ちる水しぶきがおぼろに見分けられるこの青灰色の風景にあっては、それだけが明るいスポットなのだ・・・しかし御用心! ヴェルレーヌの勢いよく噴き上げる水は、ラヴェルやドビュッシーがその反射する泡と無数の金色にきらめく滴とが落下するのを愛でた噴水とは、似ても似つかぬものである。

それは百合の花のように白く、まっすぐで純粋だ。
1つの音節(シラブル) に対して2つずつ音符を歌う声は、ピアノが沈黙する間に高いヘ音まで登りつめるが、一瞬月の滴を全身に浴びて現れたのち、影でおおわれた茂みのほうへと再び下ってゆくのである。》

             (小林緑様・遠山菜穂美様訳)

ジャンケレヴィッチの適切で詩的な解説は何処を読んでも感動します。訳者様方もやっぱりお見事だわ〜。


  七夕の夜7時半、PJにてお待ちしております。
  ご予約はピアジュリアン078-391-8081までどうぞ。

今夜は蝶番君出演のコンサートへ行って参ります。


■七夕関連リンク
*七夕はPJへ
*PJにてプーランク・マズルカ


■ジャンケレヴィッチ関連リンク
*フランスと4.20PJ写真(2)演奏中
*グッゲンハイム道順とババールカードVol.12
*お席数限定ラ・クロワ
*音とお庭
*間際の悩み
*七夕はPJへ
*裏口のカードル
*延期
*ダサいお菓子
*西宮ミュージックパーティー



PJ動画:ドビュッシー "ピアノのために"1mouv.

June 10, 2013

昨年から気に入って育ててる "小町" って種類の紫陽花です。


ドライにも向くみたいで、乾燥の失敗や色変わりが少なくお勧めの品種だと思うナ。

**


募る疲労でちょっとダウン気味の朝。
遅れてた動画をupしましょうか。





お1人だけのお話し声が入っちゃってる。
お声の主は面識だけあった絵描きさんでした。

御歳お幾つになられるのかしら・・・。ライブの "ムーランルージュ" のサブタイトルが甚くお気に召して嬉しくなられたみたいで、お客様席でお1人独白を続けられています。





2ファイル目も同じお声のおしゃべりが入ってしまってますね。
ドビュッシー "ピアノのために" 1楽章。






3ファイル目は1楽章最後から2楽章頭にかけての部分。

**


生徒ちゃんのレッスンもない日、気が抜けたのか疲れがどっと出たようです。

おしゃべりはまた明日に回しますね。



プーランクのテクスチャー

March 30, 2013

先週プーランクのコンサートへ参ったのをきっかけに、お友達と話し合いながらピアノコンチェルトの音源を幾つか聴いた。


  ?僕が知ってるプーランクatいずみホール

プーランクの溺れるような、熟れきって崩れるような和音が、語調としての其れじゃあなくってシェーンベルクの風に主義表現的に聴こえる部分が多々あった。試聴した2、3の録音の中のこと。

同じインターバルでぶつかる2つ以上の音が、プーランクの場合に酔ったような色気として醸されるのが、シェーンベルクの手の内では頭脳的な玄妙の意味を持つと表現すれば良いのでょうか。

生育しきった末に衰えの路を辿り、栄えの影を残した腐敗がプーランクのものなら、進化しきった末に複雑化の路を辿り、興隆の影を残した難解さがシェーンベルクのものと言ってみることもできるかしら?


酷似した和音の内、2国の作曲家の大きな違いは有機性? なんて申し方もしたくなったりする。


2人が書く同和音は、1つのシニフィアンでシニフィエが異なるものでもあるのカナ。

概念の相違はイグザンプルにはとっても面白いけれど、テクスチャーが異なる作曲家の方式に則る風にプーランクを演奏した録音がどうにも気に染まず、音源について話し合ってた。

そこで面白いおしゃべりを聞いたのです。

**


お寝坊してバタついちゃってる朝。
続きはまた今度ネ。



プーランクとプロコフィエフ

March 18, 2013

プロコの譜面、ぼろぼろになっちゃった。


機動的かつ扇情的な様が大好きな作曲家です。

ショパンの心情に気持ちを重ねるのは長年苦心したものなのに
プロコフィエフに心情的な労を求められたことがなかったナ。

素のままの自分の中にすっと入ってくる風で
取り組むとき摩擦を感じない作曲家でした。

ロマンチシズムも、時に冷徹にも見えるエネルギーも、
執心も、粗暴さも、男性的なエロスも、情感も、躍動も、
心の底から共鳴できた。

  昔々、お初のプロコフィエフ演奏は小品で
  多分小学2年生のときのピアノオーディション。
  すごく楽しかったんです。

お師匠様が仰ったか自分で選んだか憶えていないけれど
初めてのプロコフィエフの響きは新鮮な旋風のようだった。

    以来ずっと好きで、フランス外国籍なのに
    パリの風シリーズでも演奏しています。
  
  メンデルスゾーンがフォーレの繋がりだったように
  プロコフィエフを繋げてくれるのはプーランク♪

  *レモンタルトとメンデルスゾーン

**


ステファヌ・オデル著 "プーランクは語る (Moi et mes amis) " に寄るとプーランクは1921年頃にプロコフィエフに出会ってる。

サラ・ベルナール劇場でロシアバレエ団がプロコフィエフ "道化師" を上演してた頃という。2人はブリッジ仲間になったそう。プーランクはブリッジが得意でプロコフィエフも同じ遊びが大好きだったんですって。

1931年9月プロコフィエフは、ヴァイオリニストのジャック・ティボー、オペラ歌手フョードル・シャリアピンとブリッジの練習をして、10月末にブリッジ大会を企画する旨の手紙をプーランクに書いている。

翌10月の手紙には11月末のブリッジ大会でプーランクに会えるのが嬉しいと書き、ニューヨークの週刊誌主催のブリッジコンクールに挑戦することも勧めてる。

プロコフィエフ宅では毎週のように音楽家たちとブリッジの集まりをしてたと読んだ。

  本書はプーランクへのインタビュー形式をとっていて
  プロコフィエフの手紙にブリッジのことしか出てこないと
  プーランクが述べているのが何とも可笑しい。

    ピカソがプーランクの肖像を描き
    マチスがプロコフィエフの肖像を描いた。

    彼らは素晴らしい芸術仲間と一時代を過ごしてた。

**


昨日コンサートへ参ってプーランクのオーケストラを聴きながら
芸術家たちの出会いと別れを考えてた。

1932年6月、共通のお仕事を最後にプロコフィエフはロシアへ戻り以後プーランクと沙汰を取らなくなってしまったそう。

ブリッジを遊び楽しむ友だった2人。
でも此の秀でた人たちは互いの音楽に敬意を抱いてなければ果たしてカードを繰るお友達に置いただろうかって。

遊び友達は楽しいけれど遊びだけでは "お仲間" には繋がれないのだと、顔ぶれが示すようでもある。一方では・・・

  ブリッジだけなら来なかったかもしれない別離が
  芸術仲間だからこそやってきた。
  友となるのも別離も同じ理由なのだと思った。

才人たちの別れはほろ苦い気持ちにもさせられた。
それでも尚、別れるのであっても尚、
彼らが芸術で繋がっていたことの方に惹かれる。

続きはまた今度ネ。



ピアソラのタイトル

March 15, 2013

5月3日のリサイタル会場、旧グッゲンハイム邸。
2階から海が見えるんです。


昨年寒い日に矢車草君と下見に行った時の写真で少し陰っています。5月にはもっと鮮やかな海の色が見られるでしょうネ。

ピアノリサイタルと海辺のお散歩に、塩屋異人館にいらっしゃいませんか・・・?


今日はババール合わせ。


その前に此方で説明書きをしたピアソラ作曲 "今日のコンサート" タイトルについておしゃべりですよ。

"タンゴの歴史" は4曲から成っていますね。
1900年・1930年・1960年・現代、を追った曲集。

前3曲は過去のパリの風リサイタルで演奏し、今回は終曲。

"現代のコンサート" って訳されることもある。逡巡の末、"今日(こんにち)のコンサート" の方を用いた。

作曲年1986年から私たちが生きる21世紀までには隔たりがあり、
その隔たりは、少なくともピアソラが前3曲で区切った30年の刻みに充分手が届く期間に渡るから、"私たちにとっての現代" との混同回避に現代の語を避けた。

個人的に、2013年現在に於いては "こんにち" の言い回しの方が1900年・1930年・1960年に繋がり良い気がしたけれど大差ないのかもしれない。

歌詞があるものは詩内容優先にオリジナルも多く用い、器楽曲タイトルは広く知られた既存のものを使いながらも悩みは尽きず・・・微妙なタイトル選択は難しいナ。

**

ピアソラのお披露目は5月3日 午後2時〜
パリの風 第17回 旧グッゲンハイム邸にて

チケットのお申し込みは
マネージメント神戸コンサート協会
Tel 078-805-6351 までどうぞ。



後悔

March 05, 2013

おしゃべりと関係ないお出掛け画像です。


曲のお話項目はね、ピアノが好きでおうちで時々弾かれてるって方を想定して書いてる時が多いんダ。

音楽にお詳しい方のご質問に簡易にお答えする風な記事は細かな内容を書く場合もあるけれど、通常ブログの曲のお話ではアマチュアの方を対象に設定してみてる。

  何故ってね、
  曲名でメロディーも曲構造もスッと浮かぶ方には
  私なんかがわざわざお話するに及ばない。

  譜は読めるし作曲家イメージは何となくあるけれど
  曲想をしっかり掴んではいないから知りたいって方へ
  学術書は難しく解説風では気持ちに入らないって方へ
  此んな曲ですヨっておしゃべりしてる場合が多いかも。


プロ同士は直接のお話の場で。
音大卒業生の生徒ちゃんなどのレッスンは細部を具体的に。
でもご趣味で音楽をされてる方々とは普段お顔を合わせる機会が少ないから、ブログでおしゃべり。

分析的じゃない耳で聞く1曲は、どんな印象になるんだろう? って想像したり考えたりはとっても楽しい。


"後悔" はメンデルスゾーン無言歌Op.19-2 のサブタイトルです。


1832年作曲、同年ロンドンにて刊行。

Op.19での作曲者タイトルは3、6だけで "後悔" も出版に際してのものなのネ。

     (参考資料は三省堂クラシック音楽作品名辞典)

作曲者が名付けていないとは言え無言歌の出版タイトルは好きで、コンサートプログラムも番号よりサブタイトルで記してるんです。

番号ではどの曲かお判りになる方は少ないけれど通称タイトルの "後悔" ならたくさんの方がご存知ですものネ!

  大好きな小品。
  うんと早い段階で弾きたいと決めていて
  8月には恋のお話 "不在" を書いてみたのです。

  不思議な駅(12)不在

この曲に名付けられた後悔は、恐らく剣呑に繋がる大きなものじゃあないように思います。違った行いでも何にも変わらなかったろうけれど・・・と気持ちだけ後ろに引かれ振り返ってしまいたくなるような小さな後悔。

  お見送りで急に姿が見えなくなってしまうなら、
    もっとたくさん笑顔を見せておけば良かっただとか

  テントウムシ君が幾十年も付き合ったジンライム君と、
    それ以上致し様もなかったと分っていながらも
      もっと話しておくのだったと悔やんだだとか

不本意な無念の悔恨とは違って
とても素敵なものを築いた中の
ほんの少しの心残り。

その心残りさえも慈しみたいような
切なく愛しい小さな後悔。


メンデルスゾーンの小曲、一例に過ぎないけれど其んな感じもあるのじゃあないカナ・・・

**


5月3日 パリの風 第17回プログラムは此方です。

  *5.3リサイタル・プログラム

チケットのお申し込みは
マネージメント神戸コンサート協会
Tel 078-805-6351 までどうぞ。



ショパン・ワルツNo.18

February 28, 2013

旧グッゲンハイム邸のピアノ。
会場下見に行った日の写真です。


異人館のピアノらしく随分古くてプロコフィエフなどを弾くには状態が怪しい感じ。Mr.Bにアクションの調整をお願いしてるところです。仕上がるまでに少し時間がかかるかも。


リーフレット校正の傍らでプログラム曲のことを考えつつ、しこしこ書いてた恋のお話が幾つもあった。


"ロンサールの想い" はねショパン・ワルツNo.18の前振りだったの。

  *ロンサールの想い

KK IVb/10のナンバーが振られています。
出版社に寄ってはこの曲はワルツ集に収録されていません。
ショパン時代よりずっとずっと後に発見されたのです。

米谷治郎様の出版解説を参考に書き出しますと、

1840年7月20日 作曲
1952年     イギリスの個人コレクションの中で発見
1955年4月    ロンドンFrancisDay&Hunter社から出版
現在      パリ音楽院所蔵

作曲年月に関しては、ショパンの友人の銀行家エミール・ガイヤール (1821年〜1902年) に献呈された手稿譜にショパンの自筆で書かれているのですって。

ソステヌートの記載のみで、ワルツに分類する意見とマズルカやノクターン分類の意見に分かれる曲。私はワルツ形式の性質的な理由と、こんなソステヌートワルツの形態もあっていいんじゃないかな? って気がするからワルツの分類へ。

**


今回でパリの風シリーズでのワルツは、バラード・スケルツォと共に全曲演奏したことになるので、最後に少しレアなものも入れちゃいましたヨ。

  とっても短いワルツ。
    何でもないワルツ。
      特別な事は何にもなくて
        特別じゃないのに限りなく優しくて

  こんな事が嬉しいのよって言ってみても
    お人が聞けば取り立てる程じゃないと
      伝わり難いくらい平凡な愉悦を
        どこかへ届けたくなる曲。

ただタッチはあまり軟性にせず、2、3拍で動いてゆく中音和音の厚みに対応させて左右の絡み合いで運ぶと、落ちついた纏まりになるカナ。



浮き雲

February 27, 2013

ピアノカバーをクリーニングに出しちゃったから
代わってマルチカバーを掛けてみた。


ピアノの上はパリのお友達からのお手紙カード類。
別々の人たちからのカードなのに何故か似てる。左側に立てているのはタピオカちゃんからのお手紙です。

此処を後ろ側からパチリすると・・・


普段見えない方向から撮ると変テコ・・・舞台裏です。


このカバーの方が2台並んだ様子は良いって思ったのに
四角いカバーを変形のピアノに掛けると側面が浮いてる〜。

薄手の布ならもう少し座りが良くなるかな。
リサイタルが終わってから考えましょ。

**


4月20日PJ、5月3日グッゲンハイムのリサイタルは、メンデルスゾーン無言歌より "浮き雲" って曲を演奏します。

それでね、お馬鹿のような "飛行機に乗りたい" を書いたの。

"浮き雲" だから "飛行機に乗りたい" って、どれほど安直なネーミング?! って思ったけれど、メンデルスゾーン曲のタイトルを憶えて頂きたくて画策してしまった。でも気持ちや会話は本当なのヨ。

  *飛行機に乗りたい

無言歌Op.53第4巻全6曲のうち作曲者によるサブタイトルは5曲目のみ。"浮き雲 The fleecy cloud" は1841年ボンで刊行されています。

     (参考資料は三省堂クラシック音楽作品名辞典)

サブタイトルはメンデルスゾーンご本人のものではないけれど出版に際しての呼び方を使っています。

**


優しさに溢れ暖かく運ぶ曲。

展開部のmoll、それからDur部分に時々射す薄い影。
それが私の中ではポイントになっていました。

ほんの少しの仄暗さは決して深刻なものじゃあなくて
人生に関わる風な重い影でもなくて
ただお別れが寂しいって風な幼い嘆きに思えるの。

例えば "雨だれ" のような緊張度高いmoll部分の圧迫感とは違ってて、上にある雲の晴れ間を感じさせながらの淡い影。

また同作曲家の "失われた幸福" が、過ぎ去ったものを今手の内にあるかのように慈しむようなメロディーだとすれば、"浮き雲" は近い未来を側にあるもののように幸福な気持ちで希う、なごやかな小品に思えます。

Dur・mollのひと言や和音分類では計れない楽曲ニュアンスと作曲者の詩心。私にとっては、心の色合いを最も複雑に複合化して実感させてくれる恋のお話で顕すのがとても適しているみたい。

よぼよぼの喩え話ばかりですけど、お1人でもEsDurという調性の長閑さを感じて下さると嬉しい。



苦手だったショパン

February 25, 2013

ショパンが苦手でした。

とりあえず過去形で言ってみる。


今朝はスケルツォNo.4中間部に絡んで苦手のお話を。

**


ショパン曲は、音楽へ進む方は小学校くらいの弾き初めも多いでしょうか。私も小学生の発表会がお初でした。

音楽学生にとって長年の友であるショパンなのに飛び抜けて駄目だった気がする。最もマッチしない役柄っていうのかな・・・
舞台演者の方々がそれぞれにある相応わず苦労するタイプの役。

役の人物と溶け合えずに幅が出ない。役の中に自分自身が顔を出すとちぐはぐになる。嵌らない。そんな感じでした。

私がショパンを弾くのはミスキャスト・・・って思いながら、大学入試はもちろん古典・ロマン・近現代など各時代の演奏がオブリゲーションの学内試験でもショパンは付き纏い外せなかった。

**


留学期も相変わらずショパンはうんと下手っぴ。でもコンセルバトワールは卒業試験に課題の制約がなかったの。それで・・・

  自由選択課題にショパンを選んでしまった。
    何でしょうね・・・馬鹿すぎだわ。

Prixを頂いて卒業したけれど案の定納得いく演奏じゃなかった。
一等苦手なものを卒業課題に選んだのは上達したい意地以外の何ものでもなかったと思う。

自分だけで選べるリサイタルプログラムにも毎回数曲ショパンを入れてしまう。音楽会の印象として一番大事で緊張が最大の初っ端に。

曲づくりに苦しんで
演奏前は吐くほど緊張して
演奏後に死ぬ程後悔して
そして今回もまた入れる。
克服したくてまた入れる。

  全く正気じゃないと思う。
    恥なんか幾らかいてもいいから
      ただ乗り越えたかった。


  でももう気づきました。

此ういった馬鹿みたいに挑戦的な男のような肉食の性格では
ショパンのひ弱さ・惑いは体現できないって。致命的・・・


スケルツォNo.4中間部。


極めて抒情的なメロディと piu lento指示のメランコリックな曲調は非常にショパンらしい余情がありますね。

苦手としてた時、此うした感傷には共感していても "舞い戻ってしまう感傷" に対しては入り込み切れてなかったと近年見えてきた。

ドゥーブルピアノ→ソステヌート→ピアノ→揺れてドゥーブルピアノ→再びのソステヌート→ダブルバーを2つ越え、浮上するかに見えて・・・思考が戻っちゃう形になるショパンらしさ。

同じ思考に囚われて抜け出せない人に共鳴するものが自分の中に見出せなかったのは、私の内界の貧しさのせいでした。踏切りをためらい同じ処に留まらなければならなくなる心理は、わかりはしても実感を伴わないものだったかも。

  苦手だった原因でもあるブレる心。
  日頃に求めるものとは正反対の・・・
  
  図書はソクラテスやディドロに長年はまり
  音楽はドビュッシーの堅固なアカデミズムが
  絵画はバロックの強烈なカトリック色が
  強力でブレがなく、実にしっくりくる自分が居る。

俳優さん方に嵌り役もあれば苦心して作りこむ題材もあるように、1人の演奏者が数人以上の作曲家を手がければ、自分に備わっていないものにも始終当たるから

何とかして近づく方法を探し、軌を一にした情感の同伴を組立てるようできる限り勤しんでみた。今期は心情の脆さや精神的なひ弱さに欠ける性質を補うことに力を注ぎました。

少しは納得いくものができるよう、残る日々頑張ってみます。

**


月曜朝から全然面白くない報告ブログを書いちゃった。
今朝はレッスンから始まります。

*ショパンへのアプローチ
*ショパン・スケルツォNo.4



ショパン・スケルツォNo.4

February 24, 2013

僅かに陽が射す時間が嬉しそうな花かんざし。
寒さの中でも小さい蕾をつけました。



ショパンのおしゃべり、昨日の続きデス。

  *ショパンへのアプローチ

**


スケルツォNo.4をおしゃべりする前に記事の単純な成立ちを今一度・・・

生徒ちゃんをレッスンしてて、楽典的な転調はよくわかっていても転調が齎す色の変容に目を向け難いみたい・・・って感じたとき書いてみたおしゃべりでした。

  *繋いだ手のしらべ:転調

転調は、読んで下さる方との共通項とは限らないけれど、どなたにもある恋の記憶は程度の差はあれ共通項になり得ますね・・・
転調を意識されるお人は少なくたって、恋人と手を繋いでる時に心が動いた経験をお持ちのお方はとっても多いから。

それで矢鱈な恋のお話続き・・・♪
実際モノスゴク単純なことなんです。

恋のお話を書いてから楽曲に繋げてるのじゃあなくって、
楽曲の中の語りたい事が中心にあって恋のお話を引っ張ってくるだけ。


リサイタル・プログラムが決定してた11月に書いた恋のお話が
スケルツォNo.4を巡るイメージでした。


  *スケルツォNo.4 枯葉、恋人に会いに

No.3の焦燥感とはまるで種類の違う急いた気持ちと高揚、一種ユーフォリア調が混ざる曲。

  *スケルツォNo.3 不思議な駅(9)人身事故--スケルツォ

それもその筈 No.3が書かれた1839年とは対照的に、No.4の1842年ショパンは安定した生活の中サンドと過ごして情緒的にもとても落ち着いていたのでした。

殆どはしゃいでるって言えそうな連続和音が登場します。
ただ新しい恋の高揚と違い、ショパンとサンドが恋人同士になってから数年が経ってたの。

ショパンは片想いの心情の高ぶりを描いた曲は数あるけれど、気力充実し均衡のとれた高揚感を描くことが比較的少ないので珍しく思えたんダ。そして曲に見合いそうな実体験をよぼよぼだけど引っ張ってきた。

中間部に絡むおしゃべりはまた今度に。
リサイタルまでにショパンの心に少しでも添っていくことができますように。



ショパンへのアプローチ

February 23, 2013

丸1日レッスンとお稽古の日を過ごした。
生徒ちゃんが初めての本番前で長時間レッスンに。


ショパンをメインにレッスンしてた。

**


フランス音楽で音符をつかわない文字表現は不可能に近いのかな・・・って考えることが多かった。

数的に演奏回数はどうしてもドイツものよりフランスものが少ない中でフランス音楽の特色など尋ねられる時、いつも自分の表現力の無さにがっかりする。お尋ねに対して不十分なお答えになるのを始終後悔してる。

譜面上だけの説明は楽譜を見るだけで音が聞こえるお人に限られて、それでは条件問わずお伝えするのは無理になってしまう。
音楽大学内の会話のような進み方じゃなくて、特別な音感がなくても譜が読めなくても、どのような曲ですねって話し合う方法はないかなあって。

書き残して自分の中でも纏めておけば少しはマシな答えができるかしらって重ねてみてた。

壊すための提示を1つの小さな特色として
謂わば逆算の設定を試しに挙げてみた。

  *フランスのからくり

強度の高い現実を作るために何かを歪ませるパターンの
シュルレアリスムの一環をよぼよぼで作ったり

  *謎 -- ラヴェル "永遠の謎"

モダニズムからポストモダニズムの振りだったり

  *曲決めは楽しい (2009年のお答えを兼ねて)

も〜どれも上手くいってないのだけど、フランス音楽の解説の方法はいつかは何らかの形を見つけたいと試行錯誤。


コンサート曲の題材ばかりで曲に対してアプローチする時に通る過程を音以外で表す形を験するだけ。


でもどうしても解説風では表せないのがショパンだったんです。

ショパン解説書をお書きの方はうんと多いのに私は全く文章表現に至らない。とても重大な弱点だと思う。

レッスンで此う弾きましょうと指示し、分析解説はしても心理説明が言葉にならないなど大事な心情部分をショパンにおいてはきちんと言葉で伝え切れてないってことなのだから。

実体験として同種の心理を体験していないお人に教える時には心理の未体験ゾーンを開拓していくしかないのに、ちゃんと話してあげられなくて、もどかしかった。

生徒ちゃんの質問の多くは例えると
"むず痒いと痒いはどう違うんですか? "
なんて風な、回答に苦心するものでもあり
  
けれども考えてみれば
私自身が2つの違いを明確に理解してないから
説明しづらいのだって反省を新たにした。


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"甘い・辛い" を体験したことがないところに味を説明する能力が自分にない、となった。それならば以前宣言してた風に味そのものをストーリー仕立てにしてみましょうと素人わざをこね回してる。

昨年のプログラムのスケルツォNo.3は、心の動揺が時に無秩序な形で現れるように思えた。どういった場合なら此んな心理になるだろうって練習中もずっと考えてた。

  *不思議な駅(9)人身事故--スケルツォ

結果また上手く書けてないけれど、自分の中でだけは曲の感じが以前より明瞭になった気がした。

今回のプログラムはスケルツォNo.4・・・

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  時間がなくなっちゃった。
  病院の前に朝練だから続きはまた今度ネ!



フォーレ "クリメーヌに"

February 20, 2013

声の聞こえる文学がある。


  主人公のお顔が鮮やかに浮かぶ小説があるように
    声が聞こえる詩がある。

  *心の形  

ヴェルレーヌ詩の骨頂と感じられる "クリメーヌに" 。
とっても惹かれて以前に訳してみた。

《クリメーヌに》

            ポール・ヴェルレーヌ
            落合訳       

夢まぼろしの舟歌の
ことのはも無きロマンスの
愛し瞳の 天の色

君が妙なる囁きに
惑い乱れし我が胸の
あはれ眺めも眩むごと

君が姿の青白き
けがれ知らずや白鳥の 
薫る御(み)肌の匂やかに

ああ君ありき!
楽の音の染み入りてなお 
消え去りし天使の煌き
御身の総て音と香の

やさし韻律
響き鳴り交う やるせなさ
囚えられし我が心
アーメン



詩には、吐息を漏らす如くの優しい声のイメージがあった。

  *雪降る帰路

此の詩の固有の表情に興味を持った。

ゴーティエ詩 "漁夫の悲歌" のように
哀しいト書きの雰囲気があるでもなく、

ビュッシーヌ訳編 "トスカーナのセレナード" の
執拗な訴えでもなく、

恋い焦がれた者の歌なのに
焦慮するでなく、

かと言って
心に無理な制御をかけるでなく、

急くでなく、
諦めるでなく、

  ただ眩惑と陶酔を、豊かに歎声にて詩う。

愛しい人に聞かせるでなく
観衆へでもなく

ただ自身へ詩う。

この美しい詩にフォーレが寄せたのは
典雅なメロディと胸塞ぐかのオブリガート。

どちらが主か定かならない響きの悩ましさは
胸伝う木霊だ。



フリーズした合わせ

February 05, 2013

合わせ中にフリーズしたのは初めて・・・
びっくりした・・・


ババール合わせをしたの。
フォーレとドビュッシーが同じ詩歌題材を扱った曲を並べましょうと、楽しくプログラム作りをしてたのヨ。

色んな曲に触れたのち、

  次はフォーレの "憂鬱" とドビュッシーの "憂鬱" ネ!
  って嬉々として譜面を開いた。そしてフリーズしたの。

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"憂鬱" とは無論 Aquarelles 収録 Spleen のこと。
10代の昔から繰り返し読んできたヴェルレーヌ詩。

Les roses étaient toutes rouges,
Et les lierres étaient tout noirs.

鍵盤に指を置き、前奏テンポを取るべく、
ファゴットが奏でる歌曲パートの美しい詩に目を走らせた。
すると

Il pleure dans mon coeur
Comme il pleut sur la ville,

  えええ〜〜〜?!
  なんですって〜〜・・・??

    叫んで固まりました。
      固まるでしょう・・・?

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ヴェルレーヌ "憂鬱" のタイトルが冠された歌曲の詩が
ヴェルレーヌ ”巷に雨の降るごとく” になってたんですもの。

上写真はヴェルレーヌ詩集の当該箇所。ブログのために一応パチリしたけれど此れほど有名な詩を確かめるべくもなく・・・


悪いトリックにでも引っ掛かったような気分で途方に暮れた。


音出しは続けられず、一体何が間違ってるのかお茶でも飲んで考えてみましょうと2人でテーブルへ移動した。

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フォーレ歌曲に "Il pleure" も存在して、タイトルの Spleen がミスプリントならお話は早い。けれどフォーレにはあの名作タイトルの歌曲はないの。

何が何だかわかんなくって書棚を漁った。
参考になった文献はやはりフランス哲学のウラジミール・ジャンケレヴィッチの音楽論。

せっせとページを繰ってた蝶番君が見つけてくれた。
間違いなくフォーレは同収録詩の1篇の題名を雨の詩に名付けたとわかった。ミスプリントじゃあなく Il pleure dans mon coeur の詩を "Spleen" と冠したのだワ。

内容的に Spleen と題して問題ない憂愁の詩だけれど
本当に例外的な仕業で、私たちには珍事件となった。

歌曲タイトルは詩タイトルと本文をセットとして、作曲家は詩人さんが名付けた形で用るのがより一般的。

ヴェルレーヌの雨の詩と自作の曲が融合した後に、フォーレ楽曲として独自タイトルを授けるなら考えられないではない。

けれど同じヴェルレーヌの、同じ Romances sans paroles から別タイトルを引っ張ってくるのは余程の出来事に思えるワ。

  知らなかったから本当にびっくりしました。

今日はリサイタル曲のお稽古メインに頑張る日。




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